[#表紙(表紙.jpg)] 野口武彦 忠臣蔵 —赤穂事件・史実の肉声 目 次  元禄十四年三月十四日   赤穂事件と「忠臣蔵」   その前夜   刃傷松の廊下   内匠頭切腹  江戸と赤穂   元禄時代の江戸   殿中刃傷事件の前史   元禄経済小史   赤穂と吉良   米沢と広島  城明渡し——一家離散——潜伏   藩札始末一件   城中百家争鳴   赤穂無血開城   江戸と山科   山科会議   円山会議   江戸潜入  元禄十五年十二月十四日   吉良邸討入り   泉岳寺引揚げ   米沢上杉家江戸藩邸   四大名家へのお預け  元禄十六年二月四日まで   諸藩邸での赤穂浪士   討入りのデテール   幕府上層部の苦慮   四十六士切腹   吉良左兵衛処分   事件の波紋とその後  あとがき [#改ページ] [#小見出し]元禄十四年三月十四日  ◆赤穂事件と「忠臣蔵」[#「赤穂事件と「忠臣蔵」」は太字]  もし江戸時代の昔に新聞の夕刊があったとしたら、後に「忠臣蔵」事件と呼ばれることになる出来事は、トップ記事扱いでこんな紙面になったにちがいない。  江戸城内で傷害事件発生。本三月十四日午前十一時頃、殿中松の廊下で大名某が高家《こうけ》衆の一人に刀で斬りかかる騒ぎが起きたが、死亡者はなかった模様。原因は不明。被害者Kは現在治療中であり、加害者Aはその場ですぐ取り押さえられたがひどく興奮しており事情聴取不能。関係者は目下のところ調査の段階であるとして取材に応じていない。  もちろん、右の記事はこの時代にジャーナリズムがあったと仮定しての話である。しかし事実、世にいう「刃傷《にんじよう》松の廊下」の出来事は、だれも予想していない時と所で突発的に起きたのである。その処置も電光石火で運ばれた。だから翌三月十五日には、幕府老中の公式通達によって、事件の経過ならびにその裁定は、全大名家の知るところとなった。そこにはいくつも謎の部分、影の部分があって、後々もう一つのもっと大きな事件をひきおこす素因になった。だが、ここではその原因、動機、前後の事情、背後関係の検討は後回しにして、刃傷事件の現場の情景を報道してみよう。報道というのは新聞記事風の客観的なスタイルで、という意味である。実際には、当時この場面と事後処理との全部の過程を記述できる人物はだれひとりとしていなかった。公式記録といえどもさまざまな情報を綜合して書かれている。そのままの再現ではない。  今の場合、公式記録とされているのは『徳川実紀』である。この厖大な記録は、将軍一代ごとに編纂されていて、元禄十四年(一七〇一)は五代将軍|綱吉《つなよし》の時代であるから、その諡《おくりな》によって『常憲院殿御実紀』の巻四十三の記事になっている。だが便宜のために、以後はすべてこれを『徳川実紀』と称し、あるいはただ『実紀』と略する。ことわっておくが、『徳川実紀』は決して一級史料ではない。それ自体が当時のいくつもの記録の抜粋や引用でできあがっているからである。しかしここには、幕府が事件をどのように見ていたかといういわば正式見解が表明されている。以下の「報道記事」は『実紀』の三月十四日当日の記載にもとづく。  その日の朝、将軍綱吉は例年の京都朝廷からの勅使と拝謁するために、表《おもて》(後述)に渡る用意をしていた。ちょうどそのとき、白書院の前の廊下では留守居番|梶川与惣兵衛《ヽヽヽヽヽヽ》が自分の所用で高家|吉良《きら》上野介《こうずけのすけ》と立ち話をしていたが、そこへ突然、馳走人浅野|内匠頭《たくみのかみ》が「宿意あり」といいながら小刀で上野介に斬りつけた。梶川は即座に内匠頭を抱きすくめ、すぐに周囲の高家衆などが駆けつけて上野介をどこか他の場所に連れ運んだ。内匠頭は蘇鉄《そてつ》の間の杉戸の中に押し込んで、目付|多門《おかど》伝八郎《ヽヽヽ》そのほかの監視下に置かれた。  この椿事のために、公卿拝謁の場所も急遽、白書院から黒書院に変更され、儀礼はとどこおりなく行われた。その一方で、吉良上野介と浅野内匠頭はそれぞれの事情聴取ないしは訊問が別々になされ、上野介は相手に意趣を持たれる覚えはないと言上したので、お咎めなしとされて帰宅を許された。内匠頭は田村右京大夫邸に身柄を預けられ、その夜のうちに、大目付庄田下総守、目付大久保権左衛門・多門伝八郎《ヽヽヽヽヽ》が田村邸に派遣され、内匠頭に切腹を言い渡して、即時執行された。理由は時と場所をわきまえず理不尽な振舞いに及んだ、というものであった。  以上が『実紀』の記事にもとづく事件のあらましである。当面は必要としない細事や固有名詞は省いた。また、特に傍点した人名は後で重要な意味を持ってくるはずである。ともかくこの「刃傷松の廊下」一件は、わずか一日のうちに起き、そして処理されたのである。後で改めて述べるつもりだが、殿中刃傷事件はこれが最初でも最後でもない。元禄十四年の|この《ヽヽ》事件も、うまくいったらその一つとして、ただそれなりの関係者処分で済んでいたかもしれない。被害者は無罪、加害者は即日切腹。少なくとも幕閣はそれで解決と考えていたのである。  ところが、事態はそうは運ばなかった。翌元禄十五年(一七〇二)十二月十四日の深夜、赤穂浪士の一団が吉良邸を急襲して、上野介の首を取る。そしてもしその討入りがあれほど完全試合的に成功していなかったら、後に「忠臣蔵」事件と命名されるようになった歴史項目はそもそも存在しなかったのである。この一冊は文学や演劇の『忠臣蔵』はいっさい取り扱わない。だからここで一言だけしておくが、歴史家が「赤穂事件」としているこの一連の出来事は、世間ではそれよりも「忠臣蔵」事件という名称の方が多く通用している。それは事件のほぼ五十年後、寛延元年(一七四八)八月から大坂竹本座で初演された二世竹田出雲ほか作の人形浄瑠璃『|仮名手本忠臣蔵《かなでほんちゆうしんぐら》』の大当り以来のことである。討入りを題材にした歌舞伎とか浄瑠璃とかは、これまたこの作品が最初で最後だったわけではない。しかし『仮名手本忠臣蔵』の人気は断然他を圧した。「忠臣蔵」の呼称はそれで固定し、事件そのものが舞台のイメージの枠組みで考えられるようになった。つまり歴史上の出来事が文学作品の名で呼ばれるという倒錯が生じたのである。  明治二十二年(一八八九)に歴史学者の重野|安繹《やすつぐ》が『赤穂義士実話』という講述をしている。この学者は近代史学の提唱者として徹底的な文献実証主義の立場を取り、在来の歴史記述をあれは信用できないこれも信用できないと否定しまくったので、学界から「抹殺博士」という異名を奉《たてまつ》られた。この論文は、「忠臣蔵」事件の史実と虚構との違いを明らかにするために、史料で確証できる事実と『仮名手本忠臣蔵』とを対比させている。この構図はいかにもユーモラスだが、実際のところ、そうしなければならなかったほどこの芝居の影響力は大きかったのである。現代でも年末のテレビドラマがほとんど同じ役割を果たしている。  その後、明治四十一年(一九〇八)に福本|日南《にちなん》の『元禄快挙録』が出た。これは手放しの赤穂義士礼讃であって、日清・日露両戦役後のナショナリズムの波に乗って忠君愛国の見地から四十七士を顕彰している。同四十三年(一九一〇)には、三田村|鳶魚《えんぎよ》が『元禄快挙別録』を刊行。この史論には、日南の赤穂一辺倒に対して吉良家側に眼を向けたという特色がある。さらに鳶魚は昭和五年(一九三〇)に『横から見た赤穂義士』を書いて、四十七士のやたらな偶像化を批判している。前作とも一味変っている。日南も鳶魚もともに三宅雪嶺らの政教社同人であったが、鳶魚には明治ナショナリズムから半身脱け出した大正デモクラシイの感触がそなわっている。以上は明治このかたの赤穂事件史論の代表格であり、大小さまざまの関係著作はとても数え切れるものではない。  それよりも重要なのは、史料の収集と翻刻である。集大成的な編纂事業は三度なされている。まず第一に、明治四十三年(一九一〇)に『赤穂義人|纂書《さんしよ》』三巻(国書刊行会)刊。真偽こもごもだが資料百二十二種および補遺十七種。この出版によって、福本日南は大正三年(一九一四)になってから、前刊書の改訂版といえる『元禄快挙真相録』を再度書いたほどであった。第二に昭和六年(一九三一)、『赤穂義士史料』三巻(中央義士会編)の刊行。記録類三十七種と書状三百余通。『纂書』と重複しているものもあるが、厳密な校訂がほどこされている。そして第三に昭和六十二年(一九八七)、赤穂市史編纂室が刊行した『忠臣蔵』全六巻のうち第三巻が、最新の史料集成になっている。特にこれは、事件の経過をたどって史料が時間的に配列されているので読者には便利である。  右の三部によって、いわゆる「忠臣蔵」事件の関係史料はまず網羅されていると見て間違いないだろう。そしてこのせっかくの史料の宝の山はまだ充分に掘りつくされていないように思われる。それには理由がある。おびただしい史料の一点一点は、すべて同一の方向を指示してはいない。第一に、明白な偽書はもちろん別として、それでも真偽性の度合にはかなりの濃淡がある。第二に、記録者あるいは筆者の事件に対する間合い、スタンス、あえていうなら先入観の差異がある。たとえば殿中刃傷を「喧嘩」と見るか「事故」と見るかはたいへんな違いなのである。第三に、それぞれの心情的な思い入れ。つまり特定の個人的な色合いである。それらの複合的な結果として、諸史料各点の間には、矛盾と撞着がどうしても生じて、事件の輪郭像をぼやけさせるのである。  世に伝えられた「忠臣蔵」事件は、当初から多少とも文学化されている。そのオーラを取り除いたら何が残るか。右に記したような事情によって、最大公約数的な真実は求めようがないし、もしそれを書いたとしてもちっとも面白くない。筆者の見解では、事件のできるかぎりの復原の鍵は、諸史料間の矛盾と撞着のうちにこそある。その間隙を縫う作業を介して、なんとか事件の|なまなましい灰色のリアリティ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を回復できないかというのが、筆者のささやかな目論見なのである。  ◆その前夜[#「その前夜」は太字]  事件が起きたのは、恒例の勅使参向のさなかであった。事件の大枠となり、舞台面をしつらえ、機因を作ったのもこの勅使参向であった。内匠頭が時柄場所柄もわきまえずという事由で即日切腹を言い渡されたのもそのためであり、それにだいいち、内匠頭が勅使御馳走役を命じられていなかったら、刃傷に及ぶまでに逆上することはなかったのである。運が悪かったとしか言いようがない。  勅使参向は、毎年、将軍家から京都朝廷へ年始の祝儀の使者を上洛させ、その答礼として勅使が江戸城へ下向する例年の行事である。慣行によって、この行事は三日間のスケジュールで取り運ばれる。何月何日と定められているわけではないが、だいたい二月下旬から三月中旬にかけての時期であり、まず前日には勅使が伝奏屋敷に入り、第一日は登城して将軍と対面、第二日は勅使饗応と能楽興行、第三日は、将軍から勅使への御返答という日程になっている。『徳川実紀』を見ると、この元禄十四年の儀礼は、三月十二日に「公卿引見」、十三日に「饗応の猿楽」と二日間はスケジュール通りに進んでいる。第三日の十四日には「公卿辞見」がある手筈であった。将軍の御返答である。事実、勅使二人は城中の所定の場所——詳細は後述——で待機していた。綱吉は謁見の会場——予定されていたのは恒例どおり白書院——に向かおうとしていた。その矢先にとんでもない事態が出来《しゆつたい》して、儀式をぶちこわしてしまったのだ。  元禄十四年の勅使下向には、綱吉は格別気を遣っていたようである。この五代将軍は、生母|桂昌院《けいしよういん》への孝心が篤く、桂昌院に増位させたがっていた。元禄十五年(一七〇二)三月にはたしかに従一位に叙されている。事前の根回しもあったであろう。こんなとき京都方面に顔が利いたのが吉良上野介義央であった。ちなみに義央の訓は「よしなか」で通用しているが、正しくは「よしひさ」だったらしい。  元禄十四年一月十一日、上野介は上使として京都に出向している。二月二十九日に帰府して復命。もっとも上野介が江戸・京都を往復しているのは度々であって、この年だけ特別にというわけではない。毎年上使になっているのでもない。しかし当年六十一歳の老体で、しかも高家|肝煎《きもいり》(筆頭)の身分でありながら京都に出向いたのは、上野介にしか任せられない役儀があったからだ、と想像することはできる。この間、二月四日には当年の御馳走人として浅野内匠頭と伊達左京亮とが任命されている。上野介はたぶんこの人選には関与していない。それが結果的には双方に致命的なミス・キャストになった。  勅使御馳走役は毎年二人ずつ、かならず誰かに割り当てられる役目である。柳の間詰めの家格、つまり三万石以上十万石までの大名に命じられる慣習であった(小野子粛『徳川制度史料』)。下命されたからには辞退することはできない。広島藩家記のうちの『|冷光君御伝記』(浅野赤穂分家の記録)によると、その年三十五歳だった浅野内匠頭|長矩《ながのり》は、いやで仕方がなかったらしく、自分にはとても務まらないという口吻を洩らしているが、それは幕閣では通用しない。しかし、それも無理はなかった。馳走役はほぼ家中をあげてあらかじめ伝奏屋敷(江戸城の和田倉橋外)に入り、勅使接待の準備をしなければならない。そしてこまかなプロトコル(公式典礼)の手順は、高家肝煎の指図を受けなければならない。ストレスが溜って当然である。かてて加えて、接待費はすべてその藩の負担になる。相当な出費である。こんな役目はだれもやりたがらなかったのである。  三田村鳶魚の『武家の生活』(全集第二巻)中の一篇に「浅野老侯のお話」がある。明治維新で広島藩の最後の殿様になり、昭和十二年(一九三七)まで長生きした浅野長勲という人物の直話である。 [#ここから1字下げ]  伝奏御馳走役はむずかしいもので、その時は伝奏役の長屋へ引っ越します。そうして伝奏馳走人の詰席へ出て、高家の指図を受けて、いろいろのことをします。御馳走ですから、終始食事の諸入費を弁償する。それから登城先へ行っておりまして、今どこそこへかかられたという注進によって、それで殿中の駆引きをしなければならんので、高家衆の指図を受ける。そこに間違いも起れば、物も入るというわけです。 [#ここで字下げ終わり]  長勲は幕末の藩主だから、元禄年間とはざっと百五十年の時代差がある。だがこういう慣例はなかなか変るものではない。ましてや、この殿様は分家出身である。いろいろ苦労したのである。まずは高家への付け届け。「肝煎というのが主なので、御馳走人の方から贈物をする。|それもきまったものではいけない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|これが秘密の恒例になっていました《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。同時に高家の家来にも遣物をしなければいけない。こういうものへは金です。結局主人の力ではない。金の力なのです」(傍点引用者)といったような具合だった。つまるところ、馳走役にならないのが一番である。それにもコツがあった。「回って来そうだということがわかると、奥御祐筆のところへ聞きに行って、逃れようとする。何でも諸家の者を集めて置くそうです。そうして一人ずつ逢う。その時ものを言ってはいけない。黙って持って来たものを置いて、お辞儀をする。御免蒙りたいという意味を含蓄するのです」というのが浅野老侯の談話である。  こうして見ると、浅野内匠頭長矩はつくづく運が悪かったと思うほかはない。内匠頭は五万三千石の大名として、すでに一度、十七歳のときの天和三年(一六八三)に馳走役を務めたことがあるのである。元禄十四年には勅使柳原前大納言、高野前中納言の接待人を再度《ヽヽ》仰せつかったことになる。なお、相役の伊達左京亮(三万石)は仙洞(上皇)使清閑寺前大納言の馳走役であった。ほぼ二十年前の経験は役に立ったのかどうか。どうも裏目に出たような気がする。内匠頭は、前回の格式に多少こだわりすぎたのである。  内匠頭は親族の三次《みよし》藩主浅野土佐守長澄(五万石、広島藩浅野氏分家)に、長澄が元禄九年(一六九六)の馳走役を務めた折の「格式」を問い合わせ、「御内証帖」まで借用している。「格式」とは要するに経費のことであり、「御内証帖」とはその支出の内訳を記した帳簿である。残念ながらその総額の数字はわからない。しかしそのように近例を研究したにもかかわらず、内匠頭は「前々の格式」を頭にこびりつかせていたようなのである。上野介との確執はそこから生じた。反目はこの年二月に、馳走役を拝命し、すべて上野介から指示を仰ぐように老中から言い渡されたときからくすぶり始めていたのである。  右は『冷光君御伝記』にもとづく。しかしこの際、これはどこまでも|赤穂側の《ヽヽヽヽ》史料であって、吉良憎しの感情が基調にあることを念頭においておくことを忘れてはならない。上野介が「強欲なる御方ゆえ」といった人物評価のたぐいである。賄賂を強要し、内匠頭が従前の格式どおりにしか音物《いんもつ》(進物)を贈らなかったので意地悪されたというプロットは最初から用意されていた。そもそも殿中刃傷の原因が賄賂をめぐる確執だったとする通説は、すでに江戸時代から有力であった。『徳川実紀』さえも事件を記した後の注記で、さすがに「世に伝ふる所は」とことわった上ではあるが、上野介は「賄賂をむさぼり、其家巨万を重ねしとぞ」とか、内匠頭は「義央に財貨を与へざりしかば、義央ひそかにこれをにくみて」とかいった書き方で賄賂問題をほぼ公認している。だがこの記述は、江戸時代でも後世のことに属する。『徳川実紀』の完成は嘉永二年(一八四九)なのである。  とはいえ、その通説のみなもとは、早くも事件の同時代に現われている。元禄十六年(一七〇三)十月八日、儒学者の室鳩巣《むろきゆうそう》が書いた『赤穂義人録』である。この書名からしてモチーフは明白だろう。鳩巣は、上野介は有識故実《ゆうそくこじつ》を伝授するのに賄賂を要求するのを常とし、内匠頭は人にあたまを下げるのが嫌いだった。そこから「未《いま》だ嘗《かつ》て請謁問遺《せいえつもんい》して(へらへら追従《ついしよう》したり、袖の下を使ったりして)以《もつ》てその歓を取らず。故を以て甚だ相|善《よ》からず」という関係が生じたというのである。  ここで一つ考えてみよう。賄賂賄賂というけれども、高家《ヽヽ》吉良上野介が馳走役に任じられた諸大名から受け取る謝礼は、当時の感覚で「賄賂」であったのかどうか。式典は先例にしたがって遅滞なく、順調に運ばれなければならない。伝来の|しきたり《ヽヽヽヽ》があり、高家はその知識を独占している。一方、馳走役の大名はたいがい未経験であるから、手落ちがないように教えを乞う。成立するのは知識の伝授とそれに対する|見返り《ヽヽヽ》の関係である。謝礼金は支払わねばならない。ところで、さきに引用した浅野老侯の談話にあったように、これには相場があるようで相場がない。いわゆる「時価」というやつである。上野介が筆頭を務めていた「高家」についてはまた別に述べるが、吉良家の石高は四千五百石にすぎない。せいぜい幕府の上級旗本並みである。だが家格は特別に高かった。それを維持する財源は、高家としての職権以外にはなかった。少なくとも、現代の日本人が贈収賄というような語感でこれを考えることは禁物なのである。  それだけではなかった。というより、もっと主要な社会背景が事件の後方にひろがっていた。そのことに重大なヒントを与えてくれているのが、三田村鳶魚の『横から見た赤穂義士』である。鳶魚が小宮山南梁という学者から聞書きした談話である。 [#ここから1字下げ]  長矩は十九年前に勤めたことを考えてみますと、天和三年(一六八三)には四百両掛っている。それから元禄十年(一六九七)に勤めた伊東出雲守(日向《ひゆうが》飫肥《おび》藩主、五万一千石——引用者注)の費用を聞き合せてみると、千二百両つかっている、そこで自分はその中を取って、七百両くらいに見積ればいいだろうと考えた、それで高家の月番の畠山民部大輔に、自分で拵えた予算を見せて打ち合せる、畠山はそれをもって肝煎りの吉良に相談に及んだ、吉良はそれはいけない、朝廷からのお使いであるし、それに御馳走役というものは、そんなに度々勤めるものじゃないから、そう倹約するに及ばない、浅野の見積りはいかん、前年、前々年の例もあるから、格外に減しちゃいかん、こういって聞かない、吉良は言い出したらあとへ引かない、浅野は何といっても聞かないで、すべての設備を七百両で仕向けましたから、吉良のいうところとは、すべてのことが行き違ってくる、(下略) [#ここで字下げ終わり]  小宮山南梁は、旧水戸藩士で、『大日本史』の校訂にも従事した小宮山楓軒の孫にあたる。みずからも『古事類苑』の編纂にたずさわった学者であり、その意見は傾聴に価する。鳶魚も「いずれも想像でありまして、たしかな証拠はありませんが、小宮山翁の説は無稽なことでもなかろうと思います」といっているが、筆者にはそれ以上に筋がとおっているという気がする。要点は、「浅野が前にやった時は、四百両といいますけれども、その頃は慶長小判だったし、元禄八年以後は、例の悪貨といわれる小判になっておりますから、前後で物価が大変違います。四百両のものなら、八百両くらいかかるのは不思議ではない」というところにある。殿中刃傷の原因は「饗応費の倹約から生じている」というのが小宮山説なのである。  ここから見えてくる構図は、もはや賄賂か謝礼金(当時の言葉でいう「挨拶」)かという範囲の問題ではない。元禄時代の社会相であり、なかんずく、幕府の貨幣改鋳政策から生じた物価騰貴である。天和三年の四百両は元禄十四年にはもうその額面では通用しなかった。内匠頭はどうやらそういう事情に疎かったらしい。内匠頭のこのたびの江戸出府は元禄十二年(一六九九)であった(『浅野内匠頭宿割帳』)。赤穂藩にはもちろん在府の家臣団もいたが、この藩主はいわば高度経済成長期にあった江戸の金銭感覚になじんでいなかった。こうした事件の全体背景をなす元禄時代の経済史上の位置については後で改めて検討することにしよう。  ともかく内匠頭は上野介との間がしっくりゆかぬままに役目に奔走した。三月十日に伝奏屋敷入りして準備万端をととのえ、翌十一日の未明に勅使一行が到着した。『冷光君御伝記』によれば、この前後から内匠頭は心身に不調をきたしていたらしい。「昼夜御精力を御尽しなされ候ゆえ」、もともとの持病だった「痞気《つかえ》」が出て、侍医の寺井玄溪が薬を飲ませたという記録がある。立川昭二はこの「痞気」は「偏頭痛あるいは緊張性頭痛」だったろうと推定している(『元禄江戸人のカルテ』)。それでも役儀は続けなければならない。十二日の対顔、十三日の饗応の能楽と内匠頭はどうにかこうにか日程をこなす。そしてその翌日、運命の三月十四日を迎えたのである。  上野介と内匠頭の間には、いつガス爆発が起きてもおかしくないような険悪な空気が充満していた。問題は、それに点火したものが何であったかである。  ◆刃傷松の廊下[#「刃傷松の廊下」は太字]  現場では事件はどのようにして起きたか。根本資料として扱える文献は二点だけしかない。『梶川与惣兵衛日記』と『多門伝八郎筆記』である。梶川与惣兵衛は、七百石の旗本で、江戸城留守居番。この日は勤務で登城していて、たまたま松の廊下の刃傷の場面に居合わせ、上野介に斬りつけた内匠頭を取り押さえた人物である。多門伝八郎は目付でその日の当番であった。目付部屋に詰めていたところ、松の廊下で「喧嘩」が起きたという知らせで現場へ駆けつけ、梶川に組み留められている内匠頭の身柄を預けられたかたちで一室に拘束し、その後の訊問にも立ち合い、また同夜の内匠頭切腹の検分のために田村右京大夫邸にも赴いている。つまり、両者はともに時間的につながった目撃証言記録と考えてよいのである。ところがこれを根本史料として扱うには若干の吟味を要する。その点を留保しながら、事件の経過をたどってみよう。  梶川与惣兵衛は、この日「五《いつ》つ時」(午前八時頃)登城して、まず御広敷の御用部屋へ出頭した。本来、留守居番という役職は、大奥の警固および事務取扱い役であり、当人が松の廊下に居合わせる筋合いではない。梶川は将軍家|御台所《みだいどころ》——綱吉の正室|鷹司《たかつかさ》氏——から命じられて、下向中の勅使に挨拶の品々を渡し、口上を述べる役目を果そうと表《おもて》の大広間の方に来ていたのである。広敷は大奥の玄関にあたる。しかし間に御錠口があって、男子禁制の大奥には広敷役人も入れなかった(村井益男『江戸城』)。梶川は用務のために公卿衆の居場所をたずねて歩き、「中の間」で多門伝八郎を見かけ、いわれたとおり「殿上の間」に行ってみたが姿はなく、もう「休息の間」に移ったと教えられた。これはたぶん部屋の名ではなく休息場という意味で、公卿日記には「秋野の間」で待機していたと記してある。それでは高家衆に相談してみようと梶川は大廊下(松の廊下)に足を運んだ。  江戸城の御殿空間は信じられないほど広大である。将軍が公的な行事に用いる「表《おもて》」には、大広間(四百畳強)、白書院(百二十畳)、黒書院(八十畳弱)などがあるが、それらは「表」の面積のごく一部にすぎない(同前書)。ある程度の土地カンをつけておかないと、殿中《ヽヽ》刃傷の実感がつかめないのである。城内の図面を文献に出てくるかぎりの名称だけを示すように工夫してみたが、たとえば御広敷から始まった梶川与惣兵衛の当日の行動半径が多少とものみこめよう。  さて梶川は、大広間の後方を通って大廊下の角《かど》の柱のところに立って様子を見ていると、大広間の方に内匠頭の姿が見え、白書院の方には高家衆の姿が見えた。大廊下は大広間から直角に折れ曲って白書院に向かうが、梶川が記している「大廊下|御椽《ごえん》の方、角柱の辺」とはこの折れ曲りの地点だったとおぼしい。ここからだと両方が見渡せるのである。通りかかった坊主に聞くと、上野介はいま老中と用談中だというので、とりあえず内匠頭に会い、自分は御台所の使者としてここに来ている旨を述べ、内匠頭は承知したと答えて「本座」へ戻った。この「本座」がどの部屋であったかがちょっとした問題だが、それはひとまず措く。大廊下は大広間から折れ曲りまで長さは十・五間(十九・一メートル)、そこから白書院方向には十七・五間(約三十メートル)あった。後者の幅は二・五間(四・五メートル)、天井までの高さは一丈三寸四分(三メートル強)であった(アサヒグラフ『甦る江戸城』)。換算は江戸間の寸法による。 [#挿絵1(fig1.jpg)]  さて、梶川はしばらくして上野介が白書院の前に現われるのを見て、坊主に連絡させると、上野介は承知してこちらに向かって歩いて来た。梶川の方からも歩み寄り、角柱から六、七間ほど離れたところで双方が行き会い、立ち話のかっこうで梶川が自分の用向きを説明しはじめたとき、突然、何者かが上野介の後《うしろ》から斬りかかってきた。浅野内匠頭長矩である。刃傷の細目はあとで検討する。その前に一つ疑問が生じる。内匠頭はどこから出現したのだろうか。上野介は白書院を背にして立っていた。背後には長い廊下がある。内匠頭がその方向から来たのだったら、梶川には見えていたはずである。だが『梶川与惣兵衛日記』には、「誰やらん吉良殿の後より」としか書いてない。上野介に斬りつけた後《あと》で、梶川は相手が内匠頭だと気が付いたということになるのである。  当日、内匠頭を預り、屋敷で切腹させた田村家に『一関藩家中長岡七郎兵衛記録』が伝わっていた。それには「九時《ここのつ》前(午前十一時頃)大廊下押廻にて」という字句がある。一本には「大廊下押込にて」となっている。この記録にもとづいて、内匠頭は大廊下に面した馳走役の控えの間から出て来たのだとする説がある(斎藤茂『刃傷松の廊下始末』、同前誌所収)。合理的な考えである。これがさきの「本座」だろう。松の廊下は一方が大広間と白書院をへだてる広い中庭に面している。他方には松の障壁画が描かれた襖《ふすま》が続いていて、だからこそ「松の廊下」と呼ばれたのであるが、実際には壁面ではなかった。襖の裏にはいくつも部屋が並んでいた。  ふだんは御三家部屋そのほかであった。勅使参向は年に一度の行事であるから、その都度、馳走役の控えの間になったとしても位置関係からいってごく当然なのである。  そこまではよい。だが、ここでまた一つもっと厄介な問題が生じる。史料として活字翻刻された『梶川与惣兵衛日記』には|どれにも《ヽヽヽヽ》このとき内匠頭が上野介に向かって「此間《このあひだ》の遺恨覚えたるか」という一言を浴びせて斬りつけたとある。新書の性格上、できるだけ原文そのままの引用は避けるつもりであるが、この箇所ばかりは致し方ない。『日記』にはこうある。下文は東大史料編纂所蔵の写本の読み起こしである。 [#ここから1字下げ] 角柱より六、七間もあるべき所にて双方より出合ひ、互《たがい》に立ち居候て今日御使の刻限早く相成《あいなり》候義を一言二言申し候|処《ところ》、誰やらん吉良殿の後より|此間の遺恨覚えたるか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と声を懸け、切り付け申し候。 [#ここから3字下げ] 其太刀音は強く聞え候えども、後に承《うけたまわ》り候えば、存《ぞん》の外切れ申さず浅手《あさで》にてこれ有り候 [#ここから1字下げ] 我等《われら》も驚き見候えば御馳走人の内匠頭殿|也《なり》、上野介殿は是《これ》はとて後の方えふりむき申され候処を又切り付けられ候故、我等|方《かた》前へむきて逃げんとせられし所を又二太刀程切られ申し候。上野介殿|其儘《そのまま》うつむきに倒れ申され候。 [#ここから3字下げ] 吉良殿倒れ候と大方とたんにて、其|間合《まあい》は二足《ふたあし》か三足《みあし》程の事にて組み付き候様に覚え申し候。 [#ここから1字下げ] 右の節我等片手は内匠頭殿の鍔にあたり候ゆえ、それ共に押し付けすくめ候(下略)。 [#ここで字下げ終わり]  梶川与惣兵衛は当年とって五十三歳であった。もう若いとはいえない年齢で正面から相手を組み留めたのだから、相当な体力だったともいえるし、内匠頭がいかに貧弱だったかともいえる。まったく反対の解釈もあるが、それは省略。目下の焦点は、「此間の遺恨覚えたるか」の一言である。二つある翻刻史料双方は、東大史料編纂所蔵本系統の写本を底本にしている。『日記』の自筆稿本は散佚《さんいつ》して存在していない。ところが、この『日記』には、別箇に東大図書館所蔵のもう一つの写本(南葵文庫本)がある。それには問題の内匠頭の一言が記されていないのである。少し面倒だが手続き上、その原文の方も照合して見なくてはならない。 [#ここから1字下げ]  角柱より六、七間これ有り。双方より出合ひ、互に立ち候て今日御使早く成り候義一言二言申し候内、吉良殿|後《うしろ》より内匠殿|声かけ《ヽヽヽ》切り付け申され候えども、太刀音《たちおと》つよく候て切れ申さず、罷《まか》り在り候。吉良殿これはと申され後むき申さるる処、又打ち付け申し候えば前へもとのごとく我方へむき申され候処、二太刀ほど切り付け申され候えば吉良うつぶけにたおれ申され候と、我《われ》内匠へ組み付き申し候大方とたんにて三足か四足にて参り候|様《よう》に存ぜられ候。小さ刀のツバへかけ、我くみ付き申し候内、高家衆左京|…………《筆カスレ(ママ)》坊主も何《いずれ》もかけ付け、高家内匠へ取り付き申候(下略)。 [#ここで字下げ終わり]  すなわち、南葵文庫本の写本には、ただ「声かけ」とあるだけで、「此間の遺恨」云々の一言はないのである。はっきり内匠頭が何やら声を発して切りかかったと記してはあるが、|何といったのか《ヽヽヽヽヽヽヽ》の明記はない。両本に食い違いがあることは否定できない。これをどう説明するか。結論からさきにいうと、筆者は、両本は真書と偽書の関係にあるのではないと判断する。この『日記』は両系統ともに、同一の梶川与惣兵衛が|異なる時日に《ヽヽヽヽヽヽ》書いたものである。その理由は以下に述べるとおりである。  南葵文庫本の題箋は、「元禄十四年三月」と頭書して『梶川与惣兵衛日記』となっている。史料編纂所本は、題箋に『丁未雑記』とある一冊のうちの『梶川氏日記』である。この丁未《ひのとひつじ》がよくわからない。この干支《えと》があてはまるのは、享保十二年(一七二七)であり、その一めぐり前の丁未は寛文七年(一六六七)であって、まだ元禄になっていない。「此間の遺恨」云々のある『梶川氏日記』は整理の都合上この一冊にまぎれこんだのである。だからといって、これが偽書であると断定する理由はない。  だいたい江戸幕府の役人の日記は、私記ではなく、公用日記である。同役への事務引き継ぎのために、あるいは役職の先例として残すために書かれるものである。南葵文庫本は三月十三日までは、留守居番のひとりが体調を崩して勤務日を変えてほしいと申し出たというたぐいのことしか記録していない。それが、三月十四日になるといっぺんに調子が変るのである。疑いもなく、この現場証言はその日のうちに気持が動転したままの状態でしたためられた記事である。現場の混乱がそっくり文章の錯乱に現われている。大勢に引き立てられてゆく途中、大広間、溜り廊下、柳の間へ連れてゆかれるまで極度の興奮状態にあり、「日頃から意趣があって是非に及ばず今日どうしても討ち果したかった」と大声で叫び続け、「もう事は終ったのだからお黙りなさい」とたしなめられてようやく静まったと梶川は記す。内匠頭は、「柳の間|からかみ《ヽヽヽヽ》(別本では|くらがり《ヽヽヽヽ》)東の方御敷居」に引き据えられた。  目付衆、徒歩《かち》目付衆がやってきたので内匠頭の身柄を引き渡し、そこで梶川の役割は済んだ。その目付衆のひとりが多門伝八郎である。梶川が本来の用件のために白書院へ向かおうとすると、今度は若年寄加藤越中守から呼びつけられた。連れられていった「時計の間」には、老中阿部豊後守正武、土屋相模守正直、小笠原佐渡守長重といった面々に若年寄、大目付衆も列座していて、事件の経過をくわしく報告するようにいわれた。つまり、梶川与惣兵衛は事情聴取を受けたのである。その際、質問の重点が内匠頭の狼藉に対して、|上野介が刀に手を掛けたか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|あるいは抜き合わせたか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というところに置かれていたことに注目しよう。梶川は、刀に手を掛けなかったと答えた。事実をいったまでである。だがそれは重大な証言になった。  南葵文庫本の文章が錯乱しているというのは、突発事態とそれへの緊急の反応を起きたとおりに再現して書いているからである。右に引用した部分でも「吉良」、「内匠」と呼び捨てにして敬称を省いているところがある。それに、全体のうち二箇所に筆写者が「筆カスレ読メズ」と記した判読不能部分がある。筆写者の筆がかすれることはありえない——南葵文庫本は嘉永三年(一八五〇)に転写と明記——から、梶川自筆本がそうだったのである。いかに急《せ》きこんで書いたかがわかる。それと比較すると、史料編纂所蔵本(『丁未雑記』本)は、はるかに文章が整理されている。現場の状況、出来事の前後関係をもう一度順を追って想起した上で書き直しているのである。両系統ともに同年三月十九日の分までが書写されており、この日、梶川は十四日当日の取り捌《さば》きを賞され、五百石の加増にあずかったことが記されている。大いに面目を施したわけである。当日の一件を正確に書き残しておこうとして改筆したことに不思議はない。  さきに引用した史料編纂所本の一部には、字頭を二字分下げた箇所がある。筆者はこれを当人自身がさらに書き加えた追記であると考える。引用はしなかったが、「後でよく考えると内匠頭の心中が察される、上野介を討ち留められなかったのはさぞ無念だったろう、不慮の急変だったので前後を考えずとっさに取り押さえてしまったのは是非ない次第だった」といった一段もあるのである。真実を語ったとはいえ、自分の証言で上野介は無抵抗だったという理由でお咎めなく、内匠頭は切腹になった。おまけに自分は五百石の加増になった。やはりあまり寝覚めはよくなかっただろう。  「忠臣蔵」事件といっても、殿中刃傷から元禄十六年二月の赤穂浪士切腹の落着にいたるまで、二年間に近い時日がある。その間に人心はいろいろに動き、記録者自身もそれに左右されるのである。私見では、『梶川与惣兵衛日記』は前記のように三層をなして伝写された記録であるが、そのことはいささかも根本史料としての信憑性を減じるものではない。それならば、問題の「此間の遺恨覚えたるか」の有無はどう考えるべきか。梶川が改筆の段階で内匠頭の一言を明瞭に思い出したか、意味不明の怒号だったが後で思えばこう言っていたにちがいないと確信したかのどちらかである。拉致される内匠頭はそればかりを叫び続けていたのだから。『冷光君御伝記』は、当日まず城の玄関先で上野介が内匠頭を嘲笑し、雑言《ぞうごん》を浴びせたとした上で、刃傷の際の一言は、「上野介|唯今の雑言覚え候か《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と声を掛けたという話になっている。それなりに一種のリアリティがあるのだ。  さてこれからが『多門伝八郎筆記』の出番になる。最初にいっておくが、これにもいくつかの写本が伝わっているが、どれも文字の読み起こしの正誤、異同程度の差異であって基本的には同じものである。すなわちたがいに異本の関係に立たない。しかし、根本史料たりうるかどうかについては相当の疑念なしとしない。かの「抹殺博士」重野安繹は、この史料を「偽書又は妄説と見《ママ》認めしもの」に分類している。その理由はいずれわかる。  とはいうものの、多門伝八郎が目付の職務で内匠頭の身柄を引き継ぎ、田村邸に出向いた事実は他の公文書から確認できる。その証言能力を疑うことはできない。だからひとまず『多門伝八郎筆記』を虚心に読んでみて、疑念が出てきたらそこで考えるというやり方で進もう。史料としては、『多門伝八郎筆記』は『梶川与惣兵衛日記』から時間の切れ目なしにバトン・タッチされているのである。  多門が現場に到着したとき、上野介は同役の高家品川豊前守に抱きかかえられていて、松の廊下の「桜の間(白書院の控えの間)」に近い板縁の上で、これも大声で「医者を呼んでくれ」と絶叫していた。舌がもつれ、声がふるえていた。松の廊下の角から「桜の間」の方へ向かって必死で逃げたと見えて、畳一面に血がこぼれていた。ついでにいっておくと、松の廊下は畳敷であり、その中庭に面した外側に板縁があった。内匠頭は「かりにも五万石の大名を無体に組み留めるとは何ごとか」と抗議しながら梶川に畳の上に押し伏せられていた。ともかく双方を「蘇鉄の間」の両端に押しへだてて収容し、上層部の沙汰を待って、「存念|糺《ただ》し」(事実糾明)は、内匠頭を多門伝八郎と近藤平八郎、上野介を久留十左衛門と大久保権左衛門とがそれぞれ分担することになった。以上四名はみな目付である。したがって多門は上野介の言い分は聞いていないはずである。内匠頭は「檜の間」で訊問された、とこの『筆記』は書いている。梶川が「柳の間」に引き据えたといっているのとは証言が合わないのである。  多門は役儀上言葉を改め、殿中をもはばからず刃傷に及んだ理由をたずねた。内匠頭はいっさい申し開きをせず、ただ「私《わたくし》の遺恨これ有り、一己《いつこ》の宿意を以て、前後忘却つかまつり、打ち果すべく存じ候て刃傷に及び申し候」と答えただけで、それ以上のことにはまったく返事をしなかった。気にかけていたのは上野介に負わせたのが浅手だったのが残念だ、という一事である。そこは武士の情。相手は高齢だから、養生はおぼつかないだろうと言って聞かせたら、内匠頭の顔に喜色が浮かんだという。『多門伝八郎筆記』はこのくだりまでは信じてよい。内匠頭は激情が去った後、冷静さを取り戻していた。あきらめの境地だったのだろう。そして、すべては私個人の「遺恨」から発し、明確な殺意をもってした行為であると言い切った。しかし、「遺恨」が具体的に何であったかは|一言も口にしていない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。犯行は認めたが、犯行理由については黙秘している。『多門伝八郎筆記』は、その黙秘の件を正確に記録している。そのかぎりでは、この史料は法廷用語でいう当事者シカ知リ得ヌ細部を伝えているのである。  こうして訊問を終えた多門は、その報告を大目付二人、若年寄何人かおよび老中小笠原佐渡守・土屋相模守列座の場で、上野介担当の二人の目付も同座して言上した。しばらく待てといわれた後、知らされた裁定は、多門伝八郎にとって意外また心外なものであった。内匠頭は不届きにつき、田村邸にお預け、その身は切腹。上野介は「御場所をわきまえ、|手向いを致さず《ヽヽヽヽヽヽヽ》、神妙の至り」として無事放免、大切に保養せよという言い渡しだったのである。この裁定は松平美濃守(柳沢吉保)からの指示であった。柳沢吉保は将軍綱吉の側用人から出世して、元禄十一年(一六九八)七月、老中|格《ヽ》以上——柳沢家の家格では老中になれない——に所遇され、幕閣で絶大な権勢を揮っていた。重要な儀式を台無しにされた綱吉の激怒を、この寵臣はすぐさま裁決に現わしたのであろう。老中衆の意向など顧慮しなかったらしい。  この処置に憤然としたのが、当人の筆記によれば、多門伝八郎であった。その後多門は二つのトラブルを引き起こす。一つは、この裁定に猛然と食ってかかったことである。もう一つは、田村邸での内匠頭の切腹のさせ方《かた》に異議を唱えたことである。第二点は別項でふれる。いまは第一点。多門は柳沢吉保の裁定に不服であった。浅野内匠頭は、かりにも五万石の大名です。殊に本家広島藩は大身の大名、それが家名を捨ててまで刃傷に及んだからにはただの乱心ではあるまい、上野介にも何か落度があったかもしれない、それなのに今日すぐさま切腹とは少し軽率ではないですか、あまりにも一方的です。「余り片落ちの御仕置、外様《とざま》の大名ども存じ候所も恥づかしく存じ候」と言い立てたのである。ついでながら、「片落ち」という語句は原史料からこう書かれている。「片手落ち」の誤写ではない。とにかく多門の抗議はたちまち却下された。それどころか吉保の怒りを買い、いったん老中が決定したことに反対するとは何事か、いかにも不遜であるとして——本人が記すところでは——目付部屋に軟禁されてしまった。いささか自讃の色合いがあるにしても、ヒロイックな抗議活動である。しかし、『多門伝八郎筆記』は事件への柳沢吉保の関与を明記した最初の史料なのである。  吉良上野介からの事情聴取は、内匠頭と同時進行していたはずである。しかし、非常に手間取った。なにしろこの老人は失血ショックでひどい虚脱状態になっていたのである。ここで役に立つのは金瘡《きんそう》外科医の栗崎道有の記録である。高家衆の部屋(何々の間という記載はない)に運び込まれた上野介は、城内の医師に治療されたが、なかなか出血がとまらず、気力も薄れてきた。急遽呼び出された道有が参上したとき、上野介はナマアクビを連発して意識も昏濁していたと『栗崎道有記録』は記している。とりあえず止血処置をほどこした。それから額の長さ三寸五、六分ほどの切り傷を熱湯で洗って六針縫い、背中の軽い傷も三針縫った。また、虚脱状態は出血のせいばかりでなく、早朝から空腹だったからでもあろうと判断して、上野介に焼塩入りの湯漬を食べさせた。それで怪我人はだんだん元気を回復してきたとあるから、この道有はさすがに名医だったのである。  上野介相手の詮議はこういうありさまで進められたのである。調べの役人衆は、部屋中が血まみれなので、「穢《けがれ》ノ体《てい》」を憚って落ち着かなかった。窓口になった大目付仙石丹波守などは治療がすんできれいに掃除するまで部屋に入らなかったほどである。それでも聴取に応じた上野介は、初めのうち、内匠頭は「乱心」だといっている。この言葉は二様の意味合いに取れる。一つは、内匠頭がにわかに狂乱《ヽヽ》して兇暴化したという単純な語義。もう一つは、上野介が気息|奄々《えんえん》ながら意図的に「乱心」という言葉を用いたという推定である。『棠蔭秘鑑』には、「|乱心にて《ヽヽヽヽ》人を殺し候とも、下手人たるべく候。然れども、乱心の証拠たしかにこれ有る上、殺され候ものの主人ならびに親類等、下手人御免の願ひ申すにおいては、詮議を遂げ、相向ふべき事」という一条がある(『徳川禁令考』別巻)。これは元文三年(一七三八)にできた法令であるから、元禄年間にさかのぼって当てはめることはできない。しかし、法令の前史にはかならずや何かの慣例がある。「乱心」とは下手人の刑事責任能力の軽減を申し立てる情状酌量の口実になったのである。上野介がそこまで配慮していたかどうかはわからないが、そうでなくては老獪とはいえない。  ところが聴取の途中に、内匠頭の口上の情報が入ってきた。当人が「乱心ニアラズ即座ニ何トモカンニンノ成ラザル仕合《しあわせ》(成りゆき)」(『栗崎道有記録』)と明言してしまったのである。こうなったらどうしようもない。「かねて意趣を持たれる覚えはあるか」という質問に対して、「かつてそんな覚えはない」と答えるほかはない。覚えがあるといったら、自分の落度を認めることになる。同じ老獪さが即座に保身のために発揮される。事実として、思い当る|ふし《ヽヽ》は何もなかっただろう。ともかくそれで運命が決まった。内匠頭は全面的な加害者、上野介は一方的被害者の取り扱いになった。同夜「八つ半《なか》ば過ぎ七つ前(午前三時頃)の刻限に、退出を許され、平川口から駕籠に乗って呉服橋の自邸に帰った。そのコースはふつう伝奏屋敷の前を通るのだが、その場所には赤穂藩の家臣たちが詰めかけて大混乱になっていて、上野介もひどく怯えたので、大勢の目付衆、小人目付衆に護衛された駕籠は回り道をして吉良邸に着いた。同邸にはすでに親類はじめ上杉家の家臣たちが集まって警固していた。 [#挿絵2(fig2.jpg)]  内匠頭の下城はもっと哀れだった。『一関藩家中長岡七郎兵衛記録』によれば、預かりを命じられた田村家から檻送の駕籠が来たのは「八つ半時」(午前二時頃)であった。中の口から入って坊主部屋の前に駕籠を横付けにし、乱れた大紋姿のままの内匠頭を押し込んで錠をおろし、網までかぶせた。田村邸は愛宕《あたご》下にあった。この一行も平川口から出て、慎重に伝奏屋敷近辺を避け、迂回ルートをたどって同邸に着いた。江戸城の平川口は、こうして、鉢合わせこそはしなかったがほとんどニアミス的な時間差で宿命の両人を送り出したのである。  ◆内匠頭切腹[#「内匠頭切腹」は太字]  間もなく田村邸に「七時《ななつどき》少し前」(午前三時頃)、大目付庄田下総守、目付大久保権左衛門・多門伝八郎《ヽヽヽヽヽ》が入来した。内匠頭に切腹を申し渡し、執行を検分するためである。『一関藩家中北郷杢助手控』によれば、切腹は「六つ時過ぎ」(午前五時頃)に行われた。田村家の磯田武太夫が介錯したが、同藩の『御用書留抜』は「なるほど手ぎわよく御座候」と感嘆している。内匠頭が型通りの白木の三宝の上に置かれた九寸五分の短刀に手を伸ばすか伸ばさぬかのうちに、一刀で首を打ち落したのである。首は高々と差し上げられて座敷の検分役に示された。死骸はただちに白張りの屏風で囲われた。切腹の場所は庭先であった。  この直前、田村邸ではちょっとした混乱があった。『杢助手控』は、その場所は「最初はやはり御座敷の内」とみんなが考えていたと記している。そのための用意もしていた。ところが庄田下総守の指示によって、「白砂にて」(庭先で)と変更になった。家中は相当あわてたのである。けっきょくは庄田の指示どおりに執行されたのであるが、ここでまたしゃしゃり出てくるのが多門伝八郎である。第二のトラブルが発生する。『多門伝八郎筆記』によれば、今度は庄田下総守の指示に噛みついた。いやしくも「一城のあるじ、殊に武士道の御仕置仰せ付けられ候に付き、庭前において切腹と申すはこれ有るまじき」ことである、とまた抗議を始めたのである。立腹した庄田と掴み合いになりかけたとも記している。庄田は強引に大目付の職権で自分の方針を押し通した。多門が『筆記』で主張している上役とのこの衝突は、ある程度まで真実であったろう。庄田の高圧的な態度は、明らかに幕閣上層部に迎合したものである。綱吉・吉保の内匠頭憎しの感情を反映している。しかしまさか、切腹の場所までは指定していなかっただろう。庄田が勝手に権勢を揮ったのである。庄田と多門の仲は険悪になり、切腹検分の復命も別々になされた。多門はそのとき猛烈に庄田の措置を非難したらしい。そのせいか元禄十四年八月二十一日、庄田下総守は大目付を罷免されている。  だが、『多門伝八郎筆記』の根本史料としての信憑性はその辺までである。筆者もはじめは、多門も後から小普請《こぶしん》入り——無役、役高収入なし——しているので、この旗本の硬骨漢ぶりが災いしたのだろうと考えていた。ところが多門の小普請入りは、宝永元年(一七〇四)八月一日であり、「忠臣蔵」事件の全部が落着した後のことなのである。問題の三月十四日のトラブルとは無関係であると見た方がよい。それに第一、庄田との摩擦・衝突のことは田村家の記録にはいっさい記されていない。切腹場所の指示について多門が文句をつけたとは一言も書いてないのである。田村家が御公儀を憚って見て見ぬふりをし、だから記録に残さなかったのだともいえばいえる。しかしそれ以上に、『多門伝八郎筆記』の記述それ自体が、史料として扱うには疑惑の度合が多すぎるという方向に進んでゆくのだ。ありていにいって、同書は、せっかくの客観的真実を伝えていながらそれを御破算にしてしまう壮大なホラバナシである。  どこが疑わしいのか。第一点は、切腹の直前、田村邸に赤穂藩から片岡|源五《げんご》右衛門《えもん》という家士が内匠頭に今生の別れをするために訪ねて来たという話が割り込んでいることである。多門は「明日は退役と覚悟致し」てこの主従を面会させたと記している。田村家の記録にはもちろん残っていない。それどころか、『杢助手控』には、その期間邸内には何人《なんぴと》も立入りさせないという厳命があったとある。浅野家側には、内匠頭の切腹が済んでから弟の浅野大学のもとへ、死骸を引き取りに来るようにとの通達があった。首と胴体が別々になって庭先に置かれていた死骸を棺に納めた家臣たちのひとりが片岡源五右衛門(用人、小姓頭、三百五十石)である(『冷光君御伝記』。および『江赤見聞記』)。多門が言い立てている時刻には、伝奏屋敷の片付けと築地藩邸からの立退きで家中は上を下への騒ぎであり、片岡も忙殺されていたはずである。そして何よりも、赤穂側の史料にこんな大切なことがまったく書いてないのである。  第二点は、例の浅野内匠頭の辞世の一首である。内匠頭は切腹の座に就いてから、硯箱と料紙を所望し、ゆっくりと墨を摺り、筆を取って、※[#歌記号、unicode303d]風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残りをいかにとか(|や《イ》)せん、という和歌をしたためたというのだが、現場の空気がぴりぴり緊張していたことはすでに見た。そんな悠長な場面ではなかったのである。『多門伝八郎筆記』はここで馬脚を現わしてしまっている。田村家・浅野家の記録にそんな記事があるわけはないことは改めていうまでもない。  第三点は、翌三月十五日、松平安芸守《ヽヽヽヽヽ》(浅野本家広島藩主)|から《ヽヽ》松平陸奥守(仙台藩主伊達綱村)ならびに田村右京大夫に厳重な抗議があったという話題の記入である。陸奥守と右京大夫とは従兄弟《いとこ》であった。しかし、広島浅野家が切腹の場所が不当であると|ねじこんだ《ヽヽヽヽヽ》という話は、『冷光君御伝記』にすら書かれていない。事実そんなことはなかった。これは些細なことのようだが、後で広島浅野家の反応に言及するための心覚えにしておく。  第四点と第五点は、どちらもまたぞろ片岡源五右衛門のことである。まず同じ三月十五日、登城前に番町の自宅に同人が麻|裃《かみしも》を着用して訪れ、昨夜の礼を述べたという。実際にはこの日、内匠頭の葬儀があわただしく行われ、片岡は泉岳寺で落髪している。そしてその年の今度は十一月二十三日、多門の記すところでは、またもや片岡源五右衛門が城内の「中の口」へ参上して面会を申し入れたという。多門は座敷で面会した。片岡は「私儀もはや二君には仕へ申さず候。当春より町人に罷《まか》りなり候」と語ったというのだが、それにしても赤穂浪人がどういう|つて《ヽヽ》で「中の口」まで入って来られたのだろうか。この際それは問うまい。手土産に持ってきた品物がある。諸本の多くは判読不能としているが、『赤穂義人纂書』の翻刻本ではそれが「塩」となっている。たしかに塩は赤穂の名産であった。だがこれではいくら何でも話が出来すぎている。  『多門伝八郎筆記』がいつ書かれたかの正確な時期はわからない。おそらく赤穂浪士の吉良邸討入りが成功した後のことであろう。多門が刃傷事件の当日から内匠頭|びいき《ヽヽヽ》であったことは間違いない。それはまた幕府旗本の多くの心情でもあったのである。それが討入り成功のためにどんどん増幅してゆき、自分がいかに最初から浅野内匠頭に同情し、肩入れしていたかという自己劇化、自己説話化が甚だしいのである。あえてホラバナシと評したゆえんである。だがホラバナシは真っ赤なウソではない。『多門伝八郎筆記』は自家広告臭が強すぎるように構成されたがために史料としての信用度でずいぶん損をしている。とはいっても現場当事者の筆録なのである。この筆記だけではない。伝聞、巷説、俗書のたぐいは別として、根本史料の部類に属する記録であっても、個人主観の思い入れはどうしても消去しがたい。筆者も今後そのことを心してかかることにしよう。  元禄十四年三月十四日は、こうして終った。長い一日であった。浅野内匠頭の切腹とその検分によって、幕府にとってはこれで一件落着であった。内匠頭の怨念と一にぎりの赤穂藩在府家臣団の憤懣とを除けば、大江戸は翌日からまたふだんと同じリズムで活動していた。このとき誰も、次の大事件が起きようとは思ってもいなかったのである。だがこの日の午後と夜、江戸から赤穂に急を告げる早駕籠が相次いで出発していた。その距離なんと百五十五里、六百二十キロ。ここからしばらく事件の主要な舞台は、播州赤穂に移るのである。 [#改ページ] [#小見出し]江戸と赤穂  ◆元禄時代の江戸[#「元禄時代の江戸」は太字]  元禄文化という言葉がある。たしかに、「元禄」という年号には独特のイメージがあって、何につけても派手で華麗なものの連想を呼びさます。「元禄」にはたしかにそれだけの下地がある。その最大公約数として浮かび上がってくるものは史上空前の華美な消費文明である。そのことは「忠臣蔵」事件と無関係ではない。しかし筆者としては是非とも、ただ花やいだ雰囲気というだけではなくて、洗練と荒々しい活力が雑居していた江戸という都市空間のじかの空気《ヽヽ》の感触をたしかめておきたいのである。  根本順吉の『江戸晴雨攷』によれば、「都市気候学」という学問分野があるそうである。都市にはその地勢にしたがって、それぞれ一定の気圧動向、気温高下、風速風位、乾湿度指数等々がある。それに加えて元禄年間はとかく天変地異が多かった。だからといってたとえば、殿中刃傷の原因を内匠頭の血圧と当日の気圧に還元できるとは思わない。江戸の「空気」といったものには物理的な気象条件だけではなく、人口構成やその地域配置、生活スタイルの変化に伴う人間関係上の摩擦や圧力といったような諸因子も含まれる。江戸の町は、武士であれ町人であれ、住民にとって巨大な生活空間ないしは居住空間であり、そこで共有されていた等質の「体感温度」があったはずなのである。そのような江戸はいかにして形成されたのだろうか。  元禄に三十年ちょっと先立つ明暦三年(一六五七)一月十八日午後に本郷から出火した大火は二日間燃え続け、武家屋敷七百七十三、町屋四百町を焼き尽くし、焼死者は十万七千余人にのぼった。江戸の大半が焼失したといってよい。江戸城の天守閣もこのとき焼け落ち、その後再建されなかった。世にいう明暦の大火、あるいは振袖《ふりそで》火事である。  この大火は、幕府が江戸の都市計画に大きな改造を加えるきっかけになった。江戸城およびその城下町としての江戸の歴史にまではここではさかのぼらない。だがその急速な変容ぶりには眼を向けておこう。『慶長見聞集』、『落穂集』などの古記録によれば、天正十八年(一五九〇)の家康江戸入府のみぎりには、城もかたちばかりで石垣もなく、建物は板葺きで雨漏りがし、城外には茅葺《かやぶき》の町家が百ばかりあるかないかという状態であった。後世「大江戸八百八町」と称されるようになったこの日本最大の城下町は、そんなにみすぼらしかった僻地から一朝一夕にして出現したのではなく、ざっと半世紀の歳月を要している。特に慶長八年(一六〇三)の幕府開設以後、都市造営のテンポはめざましかった。その基本プランは、自然の水流を利用しながら掘削した掘割とつなぎ、他方では台地の一つ(神田山)を切り崩して海面(日比谷入江)を埋め立てて町人地を造成するという大土木工事であった。よくいわれる江戸城を中心にして「の」の字型右渦巻き状の水路に沿うかたちで展開する江戸の都市空間はこうして完成したのである。  明暦の大火の後の都市改造は、この基礎的な空間構造には手を加えていない。そのかわり、伊藤毅によれば、それは第一に武家屋敷と寺社を郭外(外堀の外側)に移転すること、第二に町人地を築地の造成地や本所・深川の低湿地の開発地帯に拡張したこと、第三に火除け地を設置して、道路を拡張するなど町割を改正するという方針で実施された(東京大学出版会『図集・日本都市史』)。それで火事が根絶されたわけでは無論ない。元禄十一年(一六九八)九月にはまた大火発生。一名を勅額火事という。武家屋敷三百八、町屋三百六十町というからかなりの規模である。斎藤|月岑《げつしん》の『武江年表』には、「元禄年間記事」と題した項に、この時期にわかに大分限《だいぶげん》(大金持ち)になった人物として紀伊国屋文左衛門と奈良屋茂左衛門の名前をあげている。二人とも材木屋だったのである。別に火事で儲けた悪徳商人だといっているのではない。焼け跡をもたちまち埋めつくし、復原どころかさらに拡張してゆく江戸の市街には盛大な材木の需要があったのである。  元禄時代の江戸の総人口は正確にはわからない。都市史学者の内藤昌は「八十万程度と推算されている」としている(『猥雑の構造』、朝日ジャーナル『大江戸曼陀羅』7)。百万都市とはいえぬまでも巨大都市であった。そしてこの大人口は、江戸市中に均等配分されていたのではない。江戸は、武家地・寺社地・町人地に三区分されていた。内藤が掲げているのは享保年間のデータであるが——享保十年(一七二五)に人口は百三十万——、総面積六十九・九三平方キロメートルのうち、武家地は四十六・四七平方キロ(六六・四パーセント)、寺社地は十・七四平方キロ(一五・四パーセント)、町人地は八・七二平方キロ(一二・五パーセント)とされている。武家人口は六十五万、寺社人口は五万、町人人口は六十万だったと概算されているから、そこから想像できるのは、町人地のおそろしい過密状態である。内藤の数字では、一平方キロ当り六万八千八百人の人口密度になる。武家地では一万四千人弱であり、寺社地では四千六百五十五人である。不均等はいちじるしい。問題はしかし、そうした地域区分があったことではなく、それら三つの地域の境界が隙間なく接し、しかも犬歯状に交錯していたことにある。境界は入り混っていたと言った方がよいかもしれない。空間的にも人口構成的にもそれはいえる。武家人口には現地雇いの奉公人もいる。町人地には数多い浪人もいたのである。  荻生徂徠《おぎゆうそらい》の『政談』はその巻一で、「何《い》ツノ間ニカ、北ハ千住、南ハ品川マデ家続《いえつづき》ニ成タル也《なり》」と、江戸の急速なスプロール現象を観察している。だがこれは、見方を変えれば、わけあって延宝七年(一六七九)から元禄五年(一六九二)までの十三年間を房総半島の片田舎で送り、二十七歳で江戸に戻ってきた青年のカルチャー・ショックから発した言葉だったともいえる。突飛な比較かもしれないが、水戸藩固有の定府《じようふ》の制によって、幼少期からずっと江戸に住んでいた徳川光圀だったら、決してそうは言わなかったろう。都市化現象は少なくとも連続的であって、急激な変化ではなかった。徂徠のいう千住から品川までの「家続き」とは、町屋の増殖である。武家地および寺社地が拡大することはなかった。しかしそれは享保年間の統計に見たとおり、町人地の人口密度をいささかも減じるものではなかった。そしてそれは、境界線さだかならず、武家地・寺社地と入り組んでいた。  こうした空間感覚、つまり「空気」の体感は、「忠臣蔵」事件を語るにあたって身に付けておくことが不可欠である。四十七士の大半は、それまで「江戸」を知らなかった。大石内蔵助自身も、討入り成功の直後、大目付の取調べへの答弁のなかで、自分は江戸には不案内だったといっている。この事情は、復仇計画に不利——一党が江戸に到着してからの直前脱落者が何人も出た——にも作用したが、大局的には有利な条件になった。そもそも武家屋敷の夜襲をめざして江戸に集結した数十人ものグループがどうして当日まで潜伏することが可能だったのか。町人地にまぎれこんだからである。元禄十五年(一七〇二)十二月十四日の翌朝、首尾を遂げた一党は、千住宿(日光街道)から品川宿(東海道)までではないが、本所の回向院の前から高輪《たかなわ》の泉岳寺まで、とんでもない距離を歩いたのである。そのコースは武家地を避けて、主として町人地の道路をたどった。  このような空間感覚をつかむには、地図がたいそう役に立つ。ところが総絵図にしても切絵図にしても、元禄十四、五年どんぴしゃりというのはないのである。そこでまず、くだんの明暦三年(一六五七)刊の『江戸大絵図』——大火は影響していない——を見て、一例だけをあげる。ただし、きわめて意義深い一断片である。隅田川(絵図では浅草川)の東岸の本所地区。両国橋はまだ架かっていない。その開通は寛文元年(一六六一)である。それにだいいち、ここには一並びの町屋(旗本屋敷らしきもの二、三軒まじる)があるだけで、それ以東はいきなり田圃《たんぼ》なのである。ぽつんと一つ、無縁寺(後の回向院)が建っている。もちろん吉良邸などはない、というより、武家屋敷ブロックがない。寛文十年(一六七〇)以後の『新板大絵図』にいたってようやく、回向院の東の数ブロック——本所一つ目橋、二つ目橋が目安になる——が旗本屋敷群になる。だがそれは、門前茶屋、材木置場、幕府御竹蔵(矢蔵)——燃えやすいものばかり——、町家、田畑などと入り混っている。吉良邸がそこに移るのは、それから三十年も後のことである。しかしこの地区は、居住空間用の新開地としてももうすでに家屋が稠密であった。つまり、事件の当夜、赤穂浪士の一党が火事装束《ヽヽヽヽ》で徘徊していても、だれも怪しまなかったのである。一味のいでたちは別に演出効果を狙ったものではなかった。きわめて自然に実用的《プラクテイカル》であったというほかはないのである。事実、いちばん気づかっていたのは吉良邸での失火であった。 [#挿絵3(fig3.jpg)]  ◆殿中刃傷事件の前史[#「殿中刃傷事件の前史」は太字]  寛政年間にできた『営中刃傷記』という小冊子がある。題名どおり、江戸城で起きた刃傷事件の記録である。前にもいったように、浅野内匠頭の刃傷はこれが最初ではなかった。第一回は、寛永四年(一六二七)十一月六日、江戸城西丸で小姓番の猶村孫九郎が宿直中に相番二人と口論になり、斬り付けて負傷させた。別の相番二人曾我又左衛門・倉橋宗三郎が取り押さえたが、その際の格闘で二十箇所の手傷を負った宗三郎は帰宅の後に死去した。加害者の猶村孫九郎は十三日に切腹。喧嘩相手の二人については記録なし。  第二回は、寛永五年(一六二八)八月十日、御目付豊島刑部信庸が老中井上主計頭正就を殺害。小十人組青木久右衛門義精が|即座に《ヽヽヽ》刑部を斬り殺した。第三回は、若年寄稲葉正休による大老堀田正俊刺殺事件。このときはなんと老中《ヽヽ》戸田忠昌、大久保忠朝、阿部正武、それに稲葉正則といった面々が総がかりで正休を討ち留めている。  浅野内匠頭の刃傷は、こうした事件史の上では四回目にあたる。順を追って眺めてくると、元禄十四年三月十四日の出来事が|刃傷事件として《ヽヽヽヽヽヽヽ》いかにも奇妙だったことがわかる。事件そのものがいわば文治主義的《ヽヽヽヽヽ》なのである。一回目はまだ戦国武断の気風の残る寛永年間、小姓番同士の喧嘩口論の果ての斬り合いだから別枠としても、二回目、三回目は老中までが関与している。いうまでもなく大名クラスである。いずれの場合にも、現場処置の手順ははっきりしている。即断即決である。加害者をその場で斬ってしまっているのである。相手に必殺の気合いがあったからであり、また、現場解決主義が「常識」だった時代だったからである。その点、殿中松の廊下の刃傷は、どこまでも「元禄」チックな事件だったといわざるをえない。  それが奇妙であり、文治主義であるといったのは、そもそも加害者の行為になんら計画的殺意が感じられないからである。直後にその意図があったと供述しているのは、冷静になってからのせめてもの大名のプライドである。『梶川与惣兵衛日記』には、与惣兵衛が吉良上野介と廊下で立話をする|少し前《ヽヽヽ》、浅野内匠頭と用談したと明白に記している。そのとき、与惣兵衛は内匠頭の態度に|何の異常も感じていない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。これは期せずして重大な証言になっている。次に内匠頭を見たのは上野介の背後から斬りつけている一瞬だった。形相は変っていたはずだが、与惣兵衛は相手の表情を見てはいない。眼は「小さ刀」の動きを追っていた。だからこそ、すばやい動作で正面から相手の柄元《つかもと》を押さえられたのだ。要するに、最初に見たときと第二の瞬間とでは、内匠頭は一変していたのである。  内匠頭は逆上したのである。刃傷は突発的犯行であった。犯行手口にもその無計画さがよく現われている。たびたび指摘されていることだが、当日所持の小刀で斬りかかるというのはナイフを振り回すにひとしい。必殺を期するには刺さなければならないし、その機会は充分にあった。だが、刺していないのである。堀田大老は脇差で刺し殺されている。老中井上主計頭のケースは殺害方法は不明だが、殿中では大刀は帯びないのが作法である。小刀は礼式用であって脇差とはサイズが違う。前引『栗崎道有記録』のカルテにも、「刀ノ寸ハミジカク」と明記されている。負わせたのはことごとく薄手であった。「漸々《ようよう》皮肉ノ間マデ」であり、「ヒタイノ疵ハ骨ニアタリ少々疵深シ」という診断であるが、烏帽子《えぼし》の金属製の縁が打撃を食いとめた。とはいえ、内匠頭の怨念はありありとその痕跡を記した。討入りの当夜、赤穂浪士はだれひとりとして吉良上野介の顔を知らなかった。額の傷痕がその人定の証拠になったのである。  吉良上野介は、時柄場所柄を心得ていて、手向かいしなかったのは殊勝である、というのがお咎めなしの公的事由であった。実情は手向かいする段ではなかった。出血ショックでほとんど失神状態だったのである。時柄場所柄をわきまえるどころではなかった。武士らしからぬ、といって批判しても始まらない。吉良家は、室町の昔ならともかく、江戸時代になってからの代々は、とても武芸の家筋ではなかった。まして六十歳の老人にそんなことを要求するのは酷というものだ。上野介の言動は終始一貫して文治主義的であった。幕閣の対応も同じであった。梶川与惣兵衛への事情聴取が、上野介が刀を抜き合わせたかどうかの一点に集中したのももっぱらその理由による。ひとくちにいえば、加害者・被害者の双方ともこれほど|だらしのない《ヽヽヽヽヽヽ》刃傷事件はまさしく史上最初のものだったのである。文治主義は、いっそのこと文弱主義とでもいった方がよいかもしれない。  事件史はこれが最後というわけでもなかった。それを一々紹介する必要はないが、参考になる事柄はある。第五回の事件は省略して、『営中刃傷記』に載っている第六回はちょっと注目するに価する。時代は下って享保十年(一七二五)七月二十八日のこと、水野|隼人正《はやとのしよう》忠恒(信州松本藩主、五万石)という大名が、かの大廊下で、毛利讃岐守匡広の嫡子|主水正《もんどのしよう》に斬りつけて負傷させ、即座に取り押さえられた。問題は、その事後処理である。隼人正は、評定所で「乱心」と判定され、改易(領地没収)はされたが、その身は切腹をまぬがれた。そういう手もあった。また、事実乱心だったのかもしれない。時代は享保だから、すでに八代将軍吉宗の治世である。しかし、この処置には幕閣が「忠臣蔵」事件から得たにがい教訓が生かされていたことは疑いようがないのである。  ◆元禄経済小史[#「元禄経済小史」は太字]  荻生徂徠が『政談』巻二でいうには、江戸城の金蔵には、寛文元年(一六六一)当時三百八十五万両の貯蓄があったが、積年の支出超過によってしだいに取り崩されてゆき、勘定奉行の言葉によれば「早出ル方ガ多ク成リテ、御蔵ノ金ヲ毎年一、二万両程ヅツ足スナリ」という状態であった。幕府は、経常費の不足分を備蓄から補給するような経営体質になっていた。延宝八年(一六八〇)七月に、綱吉が五代将軍になったとき、国庫は破綻に瀕していたとまではいえないが、どんどん目減りして底をつきかけていたのである。  綱吉=柳沢政権は幕府財政の窮迫打開にもいろいろ苦心した。元禄八年(一六九五)八月、幕府は起死回生の策に出た。悪名高い金銀改鋳令である。この通貨政策の立案者は、当時勘定奉行の職にあった荻原重秀《おぎわらしげひで》である。このとき幕府が発した改鋳令は、第一に、近年|地金《じがね》が不足していること、第二に、多年の流通で減磨した金銀の品位を立て直すこと、第三に、流通量を増大することという理由を挙げて、「吹き直し」(改鋳)を実施すると通告した。この新通貨は元禄金銀と呼ばれた。  元禄改鋳はひとくちにいうなら、古来通用の慶長貨幣より金・銀の含有度を低めて地金を鋳直し(「吹き替え」)、その分だけ貨幣の数量を増大させ、差益(「出目《でめ》」)を幕府の収入にしようというものであった。品位低下のために貨幣そのものの価格が下がったのである。大坂の町人学者草間直方がその著『三貨図彙』でいっているように、この改鋳はたちまち物価騰貴としてはねかえってきた。同書巻五の米価の記録を整理すると次のような表になる。大坂経済はずっと銀立てであったから、「匁」単位で表示されている換算基準は銀の価格である。金や銭(銅貨)が「代銀〇〇匁」とされるのは奇妙な感じがするが、要するに円・ドル関係のようなものだと思えばよい。  元禄六年(一六九三)   米一石  五十二匁ヨリ六十匁前後   金一両  六十匁   銭一貫文 十二匁ヨリ十三匁  元禄七年(一六九四)   米一石  六十五、六匁ヨリ六十九匁   金一両  六十匁前後   銭一貫文 十二匁ヨリ十五匁  元禄八年(一六九五)[#「元禄八年(一六九五)」はゴシック体]   米一石  七十匁前後ヨリ八十匁位[#「米一石  七十匁前後ヨリ八十匁位」はゴシック体]   金一両  六十匁四、五分[#「金一両  六十匁四、五分」はゴシック体]   銭一貫文 十五匁六分ヨリ十六匁[#「銭一貫文 十五匁六分ヨリ十六匁」はゴシック体]  元禄九年(一六九六)   米一石  前後慶長銀元禄銀ニテ百五匁   金一両  同上六十匁   銭一貫文 同上十五匁ヨリ十六匁  元禄十年(一六九七)   米一石  ────────   金一両  ────────   銭一貫文 ────────  元禄十一年(一六九八)   米一石  (百匁ヨリ百五匁)   金一両  ────────   銭一貫文 ────────  元禄十二年(一六九九)   米一石  ────────   金一両  ────────   銭一貫文 ────────  元禄十三年(一七〇〇)   米一石 ────────   金一両 ────────   銭一貫文──────── 〇元禄十四年(一七〇一)   米一石  八十匁余ヨリ九十三匁   金一両  ────────   銭一貫文 ────────  元禄十五年(一七〇二)   米一石  百匁ヨリ百十匁   金一両  六十匁ヨリ六十四、五匁   銭一貫文 十五、六匁ヨリ十七匁  ゴチックで示した元禄八年(一六九五)は金銀改鋳の年である。この年から浅野内匠頭が御馳走役を拝命した元禄十四年(一七〇一)までの六年間は、一見して明らかなように表に空白が多い。記録がないというより、混乱が甚しくて記録にならなかったことを反映していると見るべきだろう。元禄十一年(一六九八)のカッコに入れた数字は明示がないものを本文から拾った。また、元禄十年(一六九七)の米価が表に出ないのも当然で、この年は、初め平作の予想で新米相場は四十五、六匁だったのが、実際は不熟とわかり、十二月になって六十匁、七十匁に急騰するという具合に変動が激しかった。いったいにこの前後には全国各地で地震、洪水などが多かった。根本順吉の『江戸晴雨攷』がいうように、元禄年間は異常気候の時代であった。そして凶不凶はすぐさま米価の高下に現われる。武士の主要な収入源だった米はきわめて不安定な商品だったのである。  しかし右の表中、元禄六年(一六九三)の米価「五十二匁ヨリ六十匁前後と元禄十五年(一七〇二)の「百匁ヨリ百十匁」という高騰ぶりは、たんなる異常気象による米価変動ではない。ほとんど二倍もの値上がりは、貨幣価値の方が下がった結果である。草間直方は、「元禄八、九年後ノ物価ハ、皆|元禄銀ヲ以テノ《ヽヽヽヽヽヽヽ》直《ね》ナリ」とことわっている。それなのに元禄九年(一六九六)の米価は、「慶長銀・元禄銀ニテ百五匁」と示されている。一読これは矛盾しているようだが、現実には慶長銀は退蔵されはじめていたから、元禄銀での価格と見るべきである。元禄十年(一六九七)四月の布告で、幕府は新金銀と古金銀の「引き替え」を通告し、翌十一年(一六九八)三月までは「混用」を認めている。しかし、慶長金の金含有率八六・七九パーセントに対して元禄金は五七・三パーセント、慶長銀の銀含有率八〇パーセントに対して元禄銀は六四パーセントであるから、新旧混用できるわけがない。早い話が、新旧二種の貨幣は通貨単位を異にしていたのである。右の表に出ている金と銅に対する比価のことはふれない。  この出目収益のおかげで国庫はうるおい、将軍綱吉はほくほくであった。柳沢吉保・荻原重秀もほくほくであった。貧乏|くじ《ヽヽ》を引いたのは、貨幣改鋳で上がってしまった物価のもとで身銭を切らなければならなくなった御馳走役の大名たちであった。浅野内匠頭はそのひとりだったのである。米価は豊作になればまた下がる。それどころか長期的には、江戸時代の米価は下落傾向をたどっている。しかし一般の商品価格(諸色《しよしき》)はいったん上昇したら二度と元の値段に戻ることはないのである。時代は少し下って享保年間のことになるが、『三貨図彙』「物価之部」巻六は、「昨|酉《とり》年(享保二年、一七一七)諸国平穏ニテ豊熟シ、八、九分ノ作ニテ冬ニ至リ、米価一石通用銀ニテ七、八十匁、然レドモ諸物|高直《たかね》ニテ士民迷惑ス」と記している。  さきにふれた三田村鳶魚が伝える小宮山南梁の談話は、元禄十四年の内匠頭が掛けた経費の数字を挙げていた。それはなるほど想像かもしれないが、概数としてはそんなところだろう。数字の正確さはあまり問題ではない。肝心なのは、浅野内匠頭がそのときいまだに元禄金銀の感覚に馴れず、慶長金銀の感覚で予算計上をしていたのではないかということである。貨幣価値の変動は、今日だったらインフレ率何十パーセントと形容できるだろうが、江戸時代の経済用語ではそう正確にはいえない。だが江戸幕府の中枢部は、すでに新価格体系で発想していたのである。  ◆赤穂と吉良[#「赤穂と吉良」は太字]  播州赤穂藩五万三千石の領主浅野家は、もともと芸州広島藩四十二万石の浅野本家と縁続きであり、赤穂浅野家の歴史は正保二年(一六四五)の浅野長直の入封《にゆうほう》に始まる。それ以前に池田家の領地時代があり、内匠頭の切腹・改易の後、藩領は永井家三万二千石と森家二万石とに分割して受け継がれた。その前史と後史とは、いまのテーマの範囲外である。  長直入封のとき、幕府は所替えに際して旧領常陸国笠間藩の本高五万三千石を安堵《あんど》し、その上、それまで屋敷構えしかなかった赤穂藩に城郭の建造を許可している(『久岳君(浅野長直)御伝記』)。この転封事情は、広山堯道編『赤穂塩業史』所引の文書にもとづく。以下しばらく、数字を主とするデータはこの研究に依拠して先へ進むことにしたい。さて、同書によれば、赤穂藩は、転封以前からの五万三千石に加えて「新田塩田開拓予定地四千七八八石を加増している」とある。この塩田の「石高」がよくわからない。この五千石弱は、その後も赤穂藩五万三千石と称するときだれも勘定に入れていないのである。もっとも『赤穂塩業史』は、塩田地区からの税収(貢納収入)の取り高を実収(高)が「銀」単位表示であるにもかかわらず、「米」単位に換算している。たとえば、加里屋塩田は「上田、(高)銀《ヽ》三十七匁、(取り高)米《ヽ》五斗一升」というたぐいである。塩田も田畑と同じ「石高」基準で計算されることになる。法制上、新田開発の結果いずれかの藩の表高《おもてだか》が変ることはない。  表高五万三千石前後の大名ならば、全国に六十ほど、江戸城では柳の間詰めのクラスであって、特にどうということはない。赤穂藩が格別だったのは、塩田を所有していたことである。反面また、塩田所有は赤穂藩にかぎらない。江戸時代の製塩地は、「十州」(播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、阿波、讃岐、伊予)と呼ばれた瀬戸内海沿岸にとりわけ集中しており、赤穂はその一つだったのである(重見之雄『瀬戸内塩田の所有形態』)。その総面積は、『赤穂塩業史』によれば新塩田開拓は浅野家時代に約百二十七町とあるが、一方では旧来の塩田の荒浜《あらはま》化もあるから、正確なところは記録がとぎれとぎれで判明しないらしい。宝永年間には二百十二町とあるが、これは元禄以後である。生産高も——|塩の《ヽヽ》|俵《たわら》数や石《こく》数の数字はこの際あまり意味がないから省略して——要するに全国生産高の約七パーセントとあるが、これは江戸時代を均《な》らしての数値である。  そのなかで一つ明確であり、また後述する三河国吉良荘との関係で重要なのは、赤穂塩田の経営規模《ヽヽヽヽ》である。『赤穂塩業史』は、元禄九年(一六九六)の記録にもとづいて、「一軒前約一町歩の基本的経営面積が確認される」といっている。「一軒前」とは面積の多少にかかわりのない浜単位、つまり一つの経営単位《ヽヽヽヽ》である。それが元禄時代の赤穂では、一単位当り最低一町(約九十九・一七アール、というより一ヘクタール弱)の規模に達していたのである。製塩技術にまでここで言及する必要はなかろうが、『赤穂塩業史』はすでにマニュファクチュア(手工業)という用語を使っている。この経営方式は、当時として相当な生産効率を確保していたのである。  全国生産高の約七パーセントの市場《マーケツト》シェアだったとされる赤穂塩は、二つのルートを通じて販売されていった。「海路による沖売《おきうり》」と「陸路による岡売《おかうり》」である。後者は主として自領内だからいまはどうでもよい。海路をたどった赤穂塩は、江戸向きと大坂向きとに分れた。「江戸俵」と「荒井俵」という区別もあったという。前者はニガリの多い粗塩であり、後者は「良質の真塩」である。双方ともに赤穂塩問屋の管理のもとでまず大坂まで船で運ばれる。そこで二手に分れ、良質の塩は大坂で売られ、粗悪品はさらに江戸へ回漕された。ざっとここまでが赤穂サイドから見た塩の販売路の眺めである。  これを江戸サイドから見たらどうなるだろうか。大坂から、「下《くだ》り物」を満載した菱垣《ひがき》廻船がやってくる。それには木綿《もめん》、油、酢、醤油、紙などの日常必需品が積み込まれており、運ばれた物資は菱垣廻船問屋の管理下に置かれた。塩もその一品目だったのである。そのメカニズム以外の自由販売は禁じられていた。この販路は寛永年間からできあがっていて、赤穂塩もそのルートをたどるしかなかった。江戸に運ばれたのが粗塩だったのはどういうわけだろうか。江戸市民はこれをいわゆる食塩にはしなかったようなのである。宝永三年(一七〇六)にはこんなお触れが出ている。主旨は、豆腐の高値についての禁令である。たかが豆腐の値段というなかれ。このときなんと江戸の豆腐屋の代表七人が処罰されている。その理由は不当な値上げをしたということにあったが、相手の言いわけに「豆腐こしらえ候|節《せつ》、苦塩《にがり》・油糟などの値段つけ、これまた不都合なる儀これを申し」(『御触書寛保集成』二〇七六)立てたことが不届きだ、というのも付加されている。  筆者は豆腐製造技術のことは知らない。だがそれにはニガリが必要であり、「苦塩」の経費が原価コストに算入されても仕方がないぐらいはわかる。幕府はそれを認めなかったのだ。しかし、主要な話題はそこにはない。赤穂藩は、それ以前から、大坂での良質食塩と江戸の大量需要をまかなえる粗塩とを生産し分けていたということがポイントである。大江戸八百八町の人口集中が塩消費のさまざまな用途での需要をもたらした。そういう仕組みは、かなりの程度生産効率の高い経営規模でなければできることではない。  塩田からの収入が、赤穂藩の歳入のうちどのくらいのパーセンテージを占めたかはおそらく計算不能だろう。しかし、他藩よりも安定して換金しやすい生産物があったことはたしかである。財源に眼をつけない藩当局は存在しない。塩田経営者には運上金(営業税)が課された。たとえ「石高」で表示されていようとも、それは金納であった。いやでも、というより、いち早く赤穂藩は貨幣経済の網の目に巻き込まれていった。赤穂藩は延宝八年(一六八〇)に藩札(紙幣)を発行している。これは江戸時代の藩札発行の最初ではない(東京大学出版会『江戸時代の紙幣』解説)。だが、銀十匁とその兌換性を記した赤穂銀札は信用度が|強かった《ヽヽヽヽ》。現存して図版に載っているのは享保十五年(一七三〇)のものである。それも浅野家取りつぶしの混乱のみぎり、残務整理にあたった当局が一定の割合できちんと償却した——この点後述——ことによるといえよう。藩札は領内および藩外への支弁費出に使用された。その流通範囲は広島浅野本家の支藩である三次藩にまで及んでいた。現金決済がなされるのは、毎年、大坂塩問屋から藩当局へ赤穂塩の対価支払いが終了してからであった。兌換紙幣の兌換性は、もちろん、一枚の紙切れが貴金属貨幣に替えられるという信用担保を前提としている。赤穂藩にはその貨幣(銀)を入手できる能力があった。商品としての塩である。一般に、藩札発行には何か地方特産物の裏付けがあるようだが、それは一概にはいえない。赤穂藩の場合にかぎっていえば——「忠臣蔵」事件の話題に戻る——見逃すことのできない一事がある。この藩札システムを導入したのは、後に「不義士」としてさんざんな悪名をこうむった大野九郎兵衛であった。  三河国吉良庄はこの頃どうであったろうか。室町時代以来の名家だった吉良家が、高家《こうけ》に列したのは、義央《よしひさ》の祖父にあたる義弥《よしみつ》が当主だった寛永四年(一六二七)のことである。高家とは、おおざっぱにいえば徳川幕府の儀礼官の役職であり、主として対朝廷関係の儀礼を管掌した。すべて二十六家。吉良、織田、今川、畠山、大友、京極といった家名からもわかるように、いずれも古来の名族の家柄であった。家禄は最高が四千石台であり、一万石以上である大名家には及ばない。しかし、官位はそれよりも上で、家格ははるかに高かった。特に高家|肝煎《きもいり》ともなれば、役高二千石がつき、名門の背景と有識故実《ゆうそくこじつ》の知識占有が相伴って、権勢は大きかった。吉良上野介義央がまさにそうだったのである。  上野介は、寛文三年(一六六三)正月、わずか二十三歳の若さで、霊元天皇の践祚《せんそ》(後西《ごさい》天皇の譲位)の賀使として上洛している。「此後は幕府大礼|毎《ごと》に、義央の参与せざるは」なかったと、三田村鳶魚の『元禄快挙別録』は書いている。この経験は、上野介に満々たる自信を与えている。世にいう「高家筆頭」の貫禄ができあがった。性格が倨傲になったのも無理からぬことであった。それがやがて生命取りになろうとは、当人だけではない、周囲のだれも予想していなかったのである。賀使を首尾よく務めたねぎらいに、上野介は従四位上に叙され、父義冬は黄金十枚、義央は銀百枚を下賜された。  その寛文三年(一六六三)に長子三之助が生れ、翌寛文四年(一六六四)五月、上野介はこの幼児を上杉家の養子にしている。すなわち、上杉|綱憲《つなのり》である。これにはいろいろこみいった事情があるので、後で米沢藩上杉家のこととしてまとめて書く。ここで見ておきたいのは——播州赤穂との関係上——三河国吉良荘がどのように領地経営されていたかという問題である。家禄は四千二百石であるから、これは藩領ではなく禄高の上では旗本なみの知行地である。位置は、三河湾の渥美半島寄りと知多半島寄りの中間ぐらいに張り出した矢作《やはぎ》古川の河口一帯。七箇村あったが、土砂地であるから、あまり土地生産性は高くなかった。しかしながら、この地方には上野介善政説が伝わっている。第一に新田開拓、第二に築堤、第三に塩田という三つの事業が上野介の功績とされているのである。なるほど、上野介は地元では名君だったかもしれない。だが築堤は近接地域の水利に影響するので、貞享三年(一六八六)、隣りの西尾藩主土井山城守からねじこまれたが、強引に押し切ったという話もある(横山音一『吉良と浅野』)。真否はよくわからない。もう一つわからないのは、以上三つの土木工事経費はどこから調達されたのかという問題である。  ふつう藩スケールでも、土木事業を完成するには領民の苛斂誅求《かれんちゆうきゆう》をともなうものである。上野介善政説にはそれがない。吉良荘は四千二百石の旗本知行地である。なみの年貢収納ではその財源は調達できない。だが吉良家はなみの旗本衆ではない。高家役高があり、他にまた毎年諸大名からの「挨拶」料があった。前にもいったように、これは業務報酬の一部である。それが財源にまわったのである。富好新田九十八町歩のうち十五町歩が塩田として開発されたというのも同様の経過だろう。塩田はこの時期に初めて作られたのではなく、もっと古くからあった。上野介の代に面積を増したのである。とはいえ前掲『吉良と浅野』所引の『名古屋専売支局吉田出張所沿革史』(大正七年)の文章には、塩田面積約百四十町歩とあり、この数字は、日本専売公社名古屋地方局塩業部編『東海地方の製塩史』が江戸時代後半までに合計百数十町歩としているのと同じである。要点は面積よりもむしろその経営規模にある。右の『沿革史』はいう。 [#ここから1字下げ]  製塩ノ規模狭小ニシテ十州(中国及ビ四国地方ヲ総称ス)主産地ノ如ク大規模ノ経営ヲナスモノ絶エテナク、総《すべ》テ農家ノ副業的組織トシテ自家労働ヲ本位トシ、平均一戸前ノ段別僅カニ一反八|畝《せ》歩余(百六十五平方メートル弱)ニ過ギズ。故ニ、百四十町歩ノ塩田ニ対シ製塩業者ハ七百七十人分ノ多数ニ上リ、コレヲ十州地方ニ於ケル一戸前段別二町歩|乃至《ないし》三町歩(約二〜三ヘクタール)ニ比スレバ、規模ノ大小実ニ|天壌《てんじよう》ノ差アリ。(換算引用者) [#ここで字下げ終わり]  文字どおり桁が違うのである。しかもその百数十町歩のすべてが元禄年間にあったわけではない。経営規模の小ささは、そのまま生産性の低さであり、量産はできない。吉良荘の塩は「饗庭塩」と称されたニガリの少ない良質塩であり、味噌醤油の醸造家にも愛用され、販路は三河以外の尾張、美濃、北伊勢にもひろがっていた(『東海地方の製塩史』)。赤穂塩とは販路も用途もおのずから別であった。こう見てくると、どう考えても殿中刃傷の塩田問題動機説は根拠が薄くなってくる。かりに企業機密争奪ということがあったにしても、赤穂のノウハウは吉良の役には立たない。係争になりようがなかったのである。  ◆米沢と広島[#「米沢と広島」は太字]  米沢藩と上杉家と吉良家との間には、切っても切れない深い関係があった。まず万治元年(一六五八)、上野介が娶った夫人富子は上杉播磨守綱勝の妹であった。大身の大名と高家との、これはまあ尋常の婚姻である。だが、その後があまり尋常ではなくなった。寛文四年(一六六四)閏《うるう》五月二十七日、上杉綱勝は日比谷の藩邸で急死した。それも食後にわかに吐血して死んだとあるから、普通の死に方ではなかった。綱勝にはまだ嫡子が生まれていなかった。廃絶となるのが定めである。しかし、綱勝の夫人は保科正之の娘であり、その工作もあってか、時の大老酒井忠清は「上杉家の当主は実子をもうけぬうちに急死したが、じつは養子がおり、存命中にまだお届けがなかった旨、保科正之から上聞に達したので、相続を認め、米沢十五万石を領知させる」という裁定を示して、上杉家はなんとか存続できたのである。いわゆる末期《まつご》養子の制の体裁をとって救われたのだといえる。  上杉家には半知《はんち》が実行された。綱勝の代まで三十万石だったのが、米沢十五万石にされたのである。急遽立てられた養子が、吉良上野介の長子三之助、すなわち次代藩主綱憲であった。綱憲の藩主時代は、この寛文四年(一六六四)から元禄十六年(一七〇三)までほぼ四十年の長きにわたる。綱憲は「忠臣蔵」事件の結末までを見届けてから、淋しく世を去っている。綱憲が吉良家から上杉家へ入った後、吉良家には嫡男が得られず(男子何人かが夭折)、元禄三年(一六九〇)には綱憲の次男春千代を今度は吉良家が養子に迎えた。反対給付というところだが、そうドライには言い切れない事情がある。この春千代は後に吉良左兵衛|義周《よしちか》となり、赤穂浪士たちといわば運命を共にする結果になる。 [#系図(fig4.jpg、横218×縦400)]  綱勝急死のみぎり、養子縁組みは緊急に運ばれたと見てよいだろう。上杉家は吉良家に借りができた勘定になる。たぶん、上野介は恩を着せすぎたのだろう。そうとしか思えない噂が後世に残っている。通常の場合、大名家の家老は当主が養子をもうけないうちに急死致しましたと幕府に届け出はしないものである。ところが、上杉家の家老|千坂兵部《ちさかひようぶ》と沢根伊兵衛はそうした、という噂を三田村鳶魚の『元禄快挙別録』は伝えている。老中はこの届け出を却下した。だが上杉家の家老は、事実これに間違いないのだからそう届け出するしかないと言い張った、というのである。主家の存続を願わない家老がいるはずはないから、この話はどこかおかしい。鳶魚はウラに吉良上野介による上杉家乗っ取りの陰謀を見た。そして『別録』の上野介の年譜では、「上杉播磨守綱勝を毒殺す」とまで記してしまった。わが子を米沢藩主にするための画策だったとする説である。千坂兵部はそれを見ぬいていたのだという。これは後に鳶魚自身も苦笑して撤回しているように、完全なハヤトチリだった。だが、俗にいうとおり火のない所に煙は立たない。少なくとも、こうした口碑の存在は、吉良上野介は米沢では相当|きらわれていた《ヽヽヽヽヽヽヽ》ことを物語っている。  たとえば元禄十一年(一六九八)八月、前にいった勅額火事のとき、鍛冶橋内の吉良邸は類焼した。呉服橋内——伝奏屋敷と同一ブロック——に新邸を建築。工事費二万五千五百両は上杉家から支弁されたと伝えられている。米沢では、それは殿様の実父が養子先に金をねだるという|感じ《ヽヽ》で受けとめられた。綱憲という藩主に対して、上杉家古参の家臣団は冷淡だったらしいのである。要するに、上野介の評判は米沢藩ではすこぶる悪かった。それかあらぬか、元禄十四年三月十四日の刃傷当日についての『米沢藩上杉氏記録』はいたって淡白だ。公文書の性質上というよりもさらに、あまり重大事とは感じていないようなのである。上野介殿に別条なし、という程度である。  翌元禄十五年十二月十四日の討入りのとき上杉家がどう反応したかは、改めてその折に書くが、要点は一言、「家中さわぎ申すまじく候」主義である。それにはもともと、吉良家との養子縁組み以前から、上杉家が幕府に対して弱い立場にあったという事情が作用している。上杉家は、話はさかのぼるが、関ヶ原の合戦以前には会津若松に居城した百二十万石の大々名であった。関ヶ原一戦の西軍敗北に際して、三十万石に減封された。そもそも徳川家康の東軍は、本来が上杉氏討伐軍であった。上杉景勝=石田三成密約説もあるくらいだ。所領の四分の三を失ってもともかく取り潰されなかったのは、ひとえに当時の力関係だったのである。それに加えて、前述したような再度の半知である。それ以来、上杉家がとにかく幕府を刺激しないように気を遣っていたのも無理はなかったのである。  上杉家の公式記録ですら右のありさまだったから、他藩の史料、特に浅野家側の筆記、さらにまた第三者的な伝聞資料が当主綱憲と上杉家臣団との関係にひどく意地悪な見方をしていたとしても不思議はない。  『江赤見聞記』も巻七になると、いわばゴシップ集であり、あまり信頼度は期待できないが、面白い話題には事欠かない。それには上杉綱憲の近習なにがしが上野介に向かって、あなたが御存命では上杉家に災厄があるかもしれないから、いっそ切腹なさったらと進言した。上野介いたく立腹。あたりまえだ。上野介は最初のうち上杉邸と吉良邸とを転々と移動して警戒していた。上杉家からも護衛の人数が差し向けられており、長期化するとだんだん負担になっていった。近習なにがしの気持もわかるのである。  『浅吉一乱記』は、いろいろ異伝訛聞をまじえた風聞集であるが同じことを記していて、切腹を進言したのがだれあろう千坂兵部とされている。『赤穂鍾秀記』も同様の文書であるが、話はまた大きくエスカレートしていて、夫人の富子までがわが子を|ふびん《ヽヽヽ》に思うなら腹を切ってくれと言い出す始末である。上杉家の家老のひとり(氏名不明)もそれに口添えして、もしそうして下さったら追い腹を切ります、といった。重要なのはこの文書が、「すべて上杉家の旧臣らと、去春喧嘩以後、上野介父子不和の由、かねて沙汰これある事」と記していることである。不和だったのは父子の仲ではない。「上杉家の旧臣ら」と「上野介父子」との間柄である。ありていにいって、上野介は上杉家からは厄介者扱いされていたのである。  なお『赤穂鍾秀記』は、右の文面にもあったように、殿中刃傷を「喧嘩」と見ている。その点は注目しておいてよい。これは幕府旗本の面々、また在府諸藩士の空気をかなりの程度反映していたと見られるからである。上杉家の態度は右のように概括できるが、さてそれならば、播州赤穂浅野家のバックにあった広島藩浅野本家はどうだったか。  ひとまず、まだ何事も起きていなかった元禄元年(一六八八)、後に四十七士の一員になった間《はざま》喜兵衛が大石|内蔵助《くらのすけ》の一族にあたる大石五左衛門に宛てた手紙を点景することから始めよう。『津軽大石家由緒書』によれば、この人物は名を良総《よしふさ》といい、かつて浅野長直(内匠頭の祖父)に仕えたが寛文六年(一六六六)、一書を投じて赤穂を立ち退いた。元禄年間には高齢だったが江戸柳島に住んでおり、討入りを蔭ながら助けたと伝えられる。この手紙が書かれた年には、二人とも十数年後の事態を夢にだに考えていなかった。それでも何となく気が合っていたのである。以下、大意をたどって綴るとこんな文面になる。 [#ここから1字下げ]  こちら赤穂の浅野家中でも、よい武士よりも悪い武士の方が多くなりましたよ。拙者などは、五十を過ぎてようやく世間のありさまがわかるようになったくらいで、血のめぐりの悪い男ですが、つくづくそう思います。最近、上方《かみがた》で流行しているのは、算用のできるやつ、作文のうまいやつ、奉公のたくみなやつといった手合いでして、どこでも御同然なのではないですか。いやはや、武士がすたれ果てた世の中になったものです。現代は剣ヲフルワヌ乱世デアルと当代の将軍家はおっしゃったそうですが、まことにそのとおり。当世の武士は、刀・脇指《わきざし》では人を殺さず、利欲で手もとに引きこむ算段ばかりで、金銭をかき集める根性になり申しました。あなた様とか拙者とかは、一生の間、乱世にはめぐり会えないでしょうなあ。 [#ここで字下げ終わり]  幸か不幸か、間喜兵衛のこの一言は当らなかった。本人は十数年後に思いもかけぬ「乱世」に遭遇したのである。むしろ僥倖だったと評すべきだろう。だが当時はずっと、手紙の本文の言葉でいえば、「算用者、手書、奉公人」がのさばる太平の世であり、喜兵衛の言葉もそういう時代だったからこその老人の愚痴だったのである。思えば、赤穂の|古きよき日々《グツド・オールド・デイズ》であった。一家騒動は、疑いもなくこの古武士の血をいっぺんに沸き立たせたのである。赤穂四十七士には、相当な高齢者もまじっていた。こういう心情が一党を支えてもいたのである。この要素を感じあてないと、「忠臣蔵」事件は理解できない。また反面、脱落者が多かった理由もわかる。  事件の直後、赤穂現地の上下をあげての大混乱のさなかに、藩の重臣が何を措いてもまず着手しなければならなかったのは、藩札の処分であった。くわしい経過は後で見る。札座両替金そのほかに不足が生じたので、三月二十二日、赤穂から広島へ番|頭《がしら》外山源左衛門某が船路で向かい、故内匠頭からの「御無心」というかたちで銀三百貫の援助を申し入れた。ところが広島藩の留守居家老は、ただいま藩主浅野綱長は在府中なので一存では計らえないといってこれを拒絶した。三月二十六日には綱長の使者、用人井上団右衛門以下六名が江戸を発足し、四月九日に赤穂に到着した。大石内蔵助らに申し渡された口上は、こんな内容であった。「内匠頭の今回のふるまいは、当人が御馳走役を務めていながら時柄場所柄をわきまえぬ所行であって、大法にそむき不届千万である。安芸守(綱長——注)までも迷惑至極であるから、今後いっさい騒ぎ立てずすみやかに城を明け渡すように申し付ける」——キーワードは、「安芸守まで迷惑至極《ヽヽヽヽ》に存ぜられ候」である。  浅野本家筋の反応は、つめたい。右は『冷光君御伝記』の記録であって、誰かがことさらにその冷淡さを強調した言辞ではない。藩の公式見解である。浅野家の本伝にあたる『浅野綱長伝』でも、この口上書はまったく同文である。もっとも、『江赤見聞記』巻二には、「安芸守様口上書」と「安芸守様思召書」との二通が伝写されている。いま問題の「安芸守まで迷惑至極」の語句は、後書にはあるが、前書にはない。場合が場合だけに、そういうこまかな配慮があって当然だろう。いくら身内でも口外してはまずいのである。もしかしたら広島藩の用人井上団右衛門は、無神経にそれを言ってしまったのかもしれない。この一冊では以後いくたびも、不意に急場で使われることになった人間個人の性格《ヽヽ》が、事件の随所に滲み出ている場面を見るだろう。  『赤穂鍾秀記』には、三月十五日に内匠頭を切腹させたことを広島浅野家に通告したところ、安芸守綱長は、「仰せのごとく内匠頭儀、短慮なる儀を仕出し、|一家の恥辱に及び候旨《ヽヽヽヽヽヽヽヽむね》、御返答の由《よし》」と記されている。「迷惑」の段どころでなく「恥辱」になっている。だから御公儀がいかように御仕置《おしおき》をなされようとも異議は申し立てません、という返答だったとされる。『多門伝八郎筆記』の自称するところでは、多門は「かりそめにも五万石の城主、殊に本家は大身の大名に御座候」といって即日切腹に反対した。だが、その主張どおりだったとしても、それはまったくの杞憂《きゆう》だった。当の広島本家は委細構わなかったのである。上野介が上杉家の「厄介者」なら、内匠頭は浅野本家の「迷惑者」だった。その不穏な赤穂旧家臣団は、頭痛のタネであり不安材料だった。いずれにせよ米沢と広島、上杉家と浅野家という二大名は、「事なかれ」主義の好一対をなしていたのである。  ここでしばらくほんの参考資料として、殿中刃傷事件に対する京都朝廷側の反応に眼を向けてみよう。江戸の出来事が京都に伝わったのは三月十九日であった。時の関白、近衛|基煕《もとひろ》の日記を読み拾っていてまず受けるのは、何だか知らないがお公卿さんがしきりに嬉しがっている、という印象なのである。『基煕公記』の三月十九日の条には、江戸城中の事件を知らされたときの感想が「珍事々々」と書かれている。翌二十日、上野介の生死がいまだ知れないという注進を得て、その書状を内裏《だいり》に、つまり東山天皇に奏覧し、「御喜悦の旨仰せ下し了《おわ》んぬ」との御感があったと記している。卒読これは吉良の無事を喜んでいるかのようだが、この二十日の条は「吉良の生死|未《いま》だ知れず」という段階なのである。まさか、吉良が被害者になったことを喜んだとまでは悪意に取らない。しかし、生命に別条がなくて喜ばしいとばかりは素直に読めない。  当時、前権大納言で散位《さんい》(官職外)だった東園|基量《もとかず》の日記は、「吉良、死門に赴《おもむ》かず」とした後で、内匠頭の切腹については「存念を達せず、不便《ふびん》々々」と書いている。従来この言葉は内匠頭への同情の念と解されてきたが、善意の過大評価というべきだろう。カワイソウニという程度である。当日、勅使として江戸城内で答礼の待機中に事件にぶつかった前大納言柳原資廉は、『関東下向道中日記』に、自分は「秋の野の間」(所在未詳)という場所にいたが、城中で突然大騒動が起き、驚いているところに高家衆が伺《うかが》いを立てにやって来て、勅答の式場を変更したいがよろしいかといったので、別に「穢事」というわけではないから構わないと返事をした、と記している。予定の白書院がにわかに黒書院になったことは前述のとおり。老熟もあっただろう。だが、当年五十七歳だった資廉卿は、一刻も早くこんなことは済ませてしまいたかったに違いないのである。  京都朝廷サイドで、吉良上野介の評判がかんばしかったとは思えない。京都でだけ一方的にいい顔ができたはずはないのである。だからといって、それが内匠頭擁護論ないしは同情論であるという理屈にはならない。お公卿さんたちはもっと人が悪い。|少なくとも《ヽヽヽヽヽ》、京都にはそれなりにクールな一貫性があった。騒ぎを起こしたのが吉良だろうが浅野だろうが、「朝廷の繁栄、其の時を得たる者か」(『基煕公記』)という利害関係である。そこには原則的な非・当事者性というべき独自の第三者的《ヽヽヽヽ》立場があったと見る方がよいのである。 [#改ページ] [#小見出し]城明渡し——一家離散——潜伏  ◆藩札始末一件[#「藩札始末一件」は太字]  元禄十四年(一七〇一)三月十四日、江戸での凶変を知らせる急使が二陣、相次いで早駕籠で赤穂に向かった。江戸と赤穂の距離は百五十五里(約六百二十キロ)あり、ふつうは十七日行程であるが、この急使は四日間で走破した。いずれも駕籠に揺られ続けで息も絶え絶えの状態だったろう。  第一陣の早水藤左衛門《はやみとうざえもん》と萱野《かやの》三平は、『江赤見聞記』の記録では、殿中刃傷の発生だけを報じた内匠頭弟浅野大学の書状を大石内蔵助・大野九郎兵衛にもたらすべく、十四日の未《ひつじ》の下刻(午後二時頃)に江戸を発足した。赤穂到着は三月十九日の寅《とら》の後刻(午前四時)であった(『赤穂城引渡一件』)。内蔵助には驚天動地、まさに寝耳に水の通報であった。だがその後の経過はまったくわからない。茫然自失の態であった。そこへ第二陣の急使が届いた。三月十四日深更に出発した原|惣右衛門《そうえもん》と大石|瀬左衛門《せざえもん》は、内匠頭切腹と赤穂浅野家取りつぶしというさらなる凶報を江戸から持ち来たったのであった。『赤穂城引渡一件』によれば第二陣の到着は同じ三月十九日の戌《いぬ》の後刻(夜八時頃)。第一報が達してから十六時間後であった。  この瞬間から、大石内蔵助の双肩には過重な責任がのしかかることになる。その苦衷は想像に余りあるといってよかろう。討入り計画の頭領になるのはまだ先の話である。一夜にして城地が消えてなくなってから四月十九日の城明渡しまでのちょうど一箇月間、内蔵助の心労はすさまじかった。これまでとかく「忠臣蔵」事件の記述は、当初から吉良上野介への復仇という歴史摂理のごときものがあって、赤穂家中の混乱や動揺、いわゆる「不義士」の逃亡や脱落は、すべて、結合の前の分離であったかのように書かれているが、事実そんなことはない。大石内蔵助はある時点まで決して本心を見せていないが、それとても終始一定不変の「本心」があったとは思えない。大石の心情は揺れ動いていた。もっと正確には、いくつかの、そして何段階かのオプションがあって、その分だけ決意の幅があったのである。吉良邸討入りは当初からの計画にはなかった。手段がそれしかないまでに狭められていった結果なのである。最初は敵討ちどころではなかった。  だからいま問題の一箇月も、これをただ抗戦か恭順かをめぐる喧騒の期間とばかり見てはならない。亡藩のあと現地に急遽できたのは残務処理委員会あるいは清算事業団であり、主要な閣僚は大石内蔵助と大野九郎兵衛であった。この二人が中軸になって、即決すべき難問が同時進行的に処理されていった。その一つがまず藩札処分であった。早水藤左衛門・萱野三平が第一報として届けた浅野大学の書状の「尚々《なおなお》書」(追伸)には「委細申し達し候趣の第一|札座の儀《ヽヽヽヽ》|宣《よろ》しく申し付けられ候」とある。札座とは、赤穂藩札の発行と保管、ならびに換銀を担当していた役所である。  それにしても経済情報の伝達はびっくりするほど速い。浅野家取りつぶしのニュースはたちまち経済界にひろまり、三月十九日には両替(藩札の換銀)を要求する商人たちが札座に押しかけ、ちょっとした取りつけ騒ぎになった。赤穂藩が発行していた銀札は、『浅野藩札処理記録』によれば、元禄十四年(一七〇一)三月現在の発行高が九百貫であった。替り銀(兌換準備銀)は七百貫。不足分の二百貫は引当てとして塩浜の運上銀(未収)を予定していたが、「拠《よんどころ》なき御入用」があって、この運上銀は未納のうちからあらかじめ大坂からの借銀の担保にまわされていた。つまり、借り方に計上されていた。  右の「拠なき御入用」とは、赤穂藩が負担することになった勅使接待費の臨時支出と見て間違いないだろう。当の藩主が江戸で事件を起こして切腹になった。赤穂当局者がまだ事態の全貌を把握していないうちに、いきなり債権者が押しかけてきたわけである。両替に応じたが、すぐに用意金不足になった。そうなると、かねて当てにしていた浜手在方(塩浜)からは藩に入金しなくなる。どうせつぶれた藩なのだから払わなくてもいいと考えるのは人情である。札座はやむなく三月二十日からは六分両替(四割引き決済)と決定し、その方策で強引に債務を完済した。  もちろん、三月二十日だけで皆済できるはずはない。赤穂藩の「銀子札遣い」は延宝八年(一六八〇)に始まる。この制度を開設したのは大野九郎兵衛|知房《ともふさ》であり、今回の急場をしのいだのもその大野であった。赤穂藩札の通用圏は藩内だけでなく近国近在にもひろがっていた。両替を求めて詰めかけた商人には四国、家島《いえしま》あたりの者もいた。地元の奉公人も賃銀支払いを要求して騒ぎに加わった。その混乱に札座は応対しきれず、加役・足軽も「奉行人(札座役人)も差込鉢巻にして手槍を提げ、上座に構え、日々下知を加へ悉《ことごとく》銀子に取替させ埒明け候」という経過をたどったのである。  用意金不足に対する手当もなされた。浅野本家からはすげなくことわられたが、その後二十三日に三次藩に掛け合ったら、浅野土佐守長澄は、自藩で通用していた赤穂藩札を残らず銀に引き替えてくれた。商人は利にさといから、古道具を買い叩こうとする連中も入り込み、赤穂の町は騒然。こうした混乱、そしてその鎮静の経緯を、隣接する岡山藩の忍びの者がことこまかに観察・報告している。浅野瀬兵衛なる忍びのレポートでは、三月二十二日、札座に藩内外を問わず町人・百姓共がおびただしく集合し、「六分両替」では四割は丸損になると喧嘩同然の騒ぎ。二十四日には、札座がやがて江戸から城|請取《うけと》りの目付衆・代官衆が来れば、やはり断乎として「六分両替」で押し通すだろうと強硬にがんばって、ようやく取りつけの人数も減じた。どうにか切り抜けたのである。  たとえ割引き決済ではあっても、完済は完済である。旧主切腹・領地改易の後わずかに五、六日で藩の債務を処理した手腕はみごとである。このきちんとした始末はただ立つ鳥跡を濁さず式の心理ではあるまい。大石にしてみれば、これはいずれも浅野大学を盛り立ててお家再興を願うための信用確保であった。幕府対策の一環だったのである。大野九郎兵衛も同じだったろう。加うるに、この人物には有能な経済官僚としての才腕があった。「六分両替」で|いける《ヽヽヽ》と算盤をはじいたのも大野だったかもしれない。藩札始末は、大石と大野の二人三脚であった。だが共同歩調を取れたのもそこまでであった。|いわゆる《ヽヽヽヽ》「義士」と「不義士」の対立はそれ以後になって生じる。大野にしてみれば、ここまでやったからには自分の役割は充分に果したのだ。主君切腹に逆上して度を失い、眼の吊りあがった連中とつきあう義理はなかった。  ◆城中百家争鳴[#「城中百家争鳴」は太字]  『江赤見聞記』巻一には、「札座両替の事ども其外、兎角《とかく》委細の儀まで残らず相済み、さて御城に於いて大石内蔵助上座つかまつり、何《いずれ》も存じ寄り申し談じ候」と記している。家中評議である。議論百出けんけんごうごう、とても衆議一決という雰囲気からは遠かった。大野九郎兵衛は、いうまでもなく、城を無事に引き渡して、その上でお家再興を考えればよいではないかという意見であった。原惣右衛門・奥野|将監《しようげん》・進藤源四郎などは、赤穂城は「古内匠頭」(浅野長直)の建設にかかり、上野介存生というのに赤穂離散は無念至極である、さりとて籠城《ヽヽ》などは御公儀への反抗になるから、検使の眼の前で城を枕に切腹《ヽヽ》するほかはない、と主張した。どういうものか籠城=徹底抗戦派は一人もいなかった。大勢は抗議切腹派であった。内蔵助は本心を明かさなかった。とりあえずその場は、「切腹の相談に相|究《きわま》り申し候。左|様《ママ》て存じ寄りの面々、内蔵助宛に仕《つかまつ》る神文《しんもん》(誓紙)差出し候もの六十人に余り候なり」ということでおさまった。  『江赤見聞記』巻一は、その連名を七十四人分つらねているが、これはあまり信用ならない。というのは、この連判には高田|郡兵衛《ぐんべえ》・奥田|孫太夫《まごだゆう》・堀部安兵衛《ほりべやすべえ》の名前も加わっているが、実際にはこの三人は定江戸組であり、三月十九日段階ではまだ江戸の地で切歯扼腕していて、城中評議のとき赤穂には居合わせていなかったのである。『堀部|武庸《たけつね》(安兵衛)筆記』は貴重な史料であり、あとでまた再三活用したいが、ともかくこの三人が赤穂に出て来ていろいろ内蔵助を悩ますのは四月十四日になってからである。しかもまた、『堀部武庸筆記』が伝えている城中評議の結論は、「故《ママ》内匠頭取立テ候城離散ハ成ルマジク候。各《おの》オノ自滅ノ場此節ニ相極メ候」となっている。というより、江戸ではそのように風聞されていたと理解しておいた方がよいのである。だから、かなり勝手な解釈もまじっている。籠城の条件がととのわないときには|せめて《ヽヽヽ》、花岳寺で主君の追腹をする——評定の結果は、そういう「一儀」だったと安兵衛そのほか江戸武断派は考えていたのである。  ところが、実際の城中評議はとてもそんなものではなかった。家中みな|まなじり《ヽヽヽヽ》を決してはいたが、籠城抗戦を主張する者はなかった。抗議切腹派の連判人数すら正確にはわからない。かりに六十人余りだったとしてもよいが、しょせんは集団心理であり、一時的な高揚感というにすぎなかった。すぐに意気沮喪。後日の経過が何よりもよく事態を物語ろう。内匠頭切腹の当夜、亡君の遺骸を引き取りに行き、泉岳寺に葬ってその場で剃髪した片岡源五右衛門・田中|貞四郎《ていしろう》・磯貝十郎左衛門の三人組は、三月十七日に赤穂に向かって発足した。江戸家老の安井彦右衛門・藤井又左衛門の両名は、田村邸はおろか泉岳寺にも姿を見せなかった。片岡らの三人が、城中評定に間に合ったとは思えない。だが、内蔵助から評定でまとまった「一儀」に賛同するようにいわれたとき、三人は、「我等《われら》ドモ存ジ寄リ御座候」ゆえ「一儀罷リ成ルマジキ旨」と意外な返答をして人々を不審がらせた。思うに、三人は赤穂現地の無結束ぶりに呆れ果て、現実性のない「一儀(抗議切腹論)」には乗らず、自分たちは独自行動を取るという態度を表明したのである。  いずれにせよ、三月二十日頃の段階では、この抗議切腹論は、赤穂旧家臣団のいわば最大公約数的公式了解ということになっていた。『赤穂内匠頭分限牒』などでは徒士《かち》以上の士分は三百八名である。討入りに加わったのが四十六名ないし四十七名であったことなど、この時点ではまだ問題にしない方がよい。『江赤見聞記』が掲げる六十余名ですら、決して多数意見《マジヨリテイ》ではなかったのである。大石は収拾のつかない藩論をわざとあいまいに放置していたと思われる。この時期、幕府および浅野家親類筋からすさまじいプレッシャーがかかっていたのである。それも同時進行であった。  幕府の圧力は、定石どおりだが、えげつなかった。親族がらみでじわじわ攻めて来るのである。まず利用されたのが、浅野内匠頭の母方の従兄弟《いとこ》にあたる大垣十万石の藩主戸田|采女正氏定《うねめのしよううじさだ》であった。刃傷のあった三月十四日、老中土屋相模守政直から、やはり内匠頭の伯父にあたる浅野美濃守長恒(当時は伊勢山田奉行)ともども、伝奏屋敷の赤穂藩士の取り鎮めを命じられ、同日、鉄砲洲の赤穂藩邸の一時保管も命じられた。その後すぐ、「忌懸《いみがか》りの御一族方」という理由で謹慎を申し渡される。ところが三月十七日になると、幕府は手のひらを返したように土屋相模守の老中奉書を送ってきた。赤穂|表《おもて》に出向き、「領分ならびに家中諸事作法よき様に念入れ申し付くらるべく候」という通達である(以上『大垣藩戸田氏播州赤穂一巻覚書』)。これは明らかに親類筋だというので使われたのである。城明渡しのとき、マサツアツレキが生じないように懐柔しておけというわけである。  三月十九日には、城明渡し検分の役目に任じられた幕府大目付荒木十左衛門・榊原|采女《うねめ》連名の書状が、江戸からの飛脚で発せられ、赤穂には三月二十五日の夜に到着した(この前後しばらく『赤穂城引渡御用状』)。赤穂側では当然予想していたことであった。問題は、三百八人の家臣団がどのように対処するかにあった。同じ二十五日には浅野美濃守からの状箱も大石・大野宛てに届いた。内容は推して知るべし、である。同日、三次藩浅野土佐守長澄からの使者到着。翌二十六日には広島本家からの使者到着。それぞれの口上はわかりきっているから一々紹介するには及ぶまい。とにかく穏便に、無抵抗で、事を荒だてずに城を明け渡してくれの一語につきる。さもないと親族に累が及ぶ。根本は幕府の差し金だが、親類縁者も必死だった。何とぞ暴発してくれるな。そんな圧力が文字どおり一日刻みで赤穂現地には加わっていた。  大目付荒木・榊原連名の要求項目を見ると、この時代、官僚機構のメカニズムがいかに整備されていたかがじつによくわかる。城明渡しの実行要員は、播州|竜野《たつの》藩脇坂淡路守安照・備中|足守《あしもり》藩木下肥後守利康に命じられていた。だがそれに先立って旧赤穂藩に提出が求められていたのは、城絵図、領内絵図、田地年貢高表、城内金銀銭塩味噌保有量、武具諸道具類目録、商売品目書上げ、牛馬数、舟数、藩札発行高等々の細目にわたっていた。まさに完璧主義である。目付衆は、城明渡しの検分に際してそれを確認しなければならない。すべては職掌第一主義で動くのである。  三月二十八日には、とうとう戸田采女正の使者戸田源五兵衛・植村七郎右衛門が赤穂に到着した。ことわっておくが戸田采女正は大目付でも何でもない。ただの見届け役である。しかし、幕府からは態よく潤滑剤として利用されていた。両使者は老中土屋相模守の言渡しを持参していた。「|来月中旬過ぎに《ヽヽヽヽヽヽヽ》(城を)請《う》け取るべく候|間《あいだ》、其の意を得られ、内匠一類中へも相達すべく候」という文面である。四月中旬過ぎには赤穂城を明け渡すように、という通告。この書状の写しには戸田采女正の印判が押してあった。  ここで、大石内蔵助は一つの勝負に出る。翌三月二十九日、多川九左衛門・月岡治右衛門の二人を江戸に早使に立て、幕府大目付荒木十左衛門と榊原采女に直接《ヽヽ》、自筆の口上書を手渡そうとしたのである。この口上書の伝本にはヴァリアントがある。まず『大垣藩戸田氏播州赤穂一巻覚書』によれば、だいたいこうなる。 [#ここから1字下げ]  家中の武士どもには無骨者が多く、一筋に主君を思いつめ、御法式のことなど解せず、吉良様御無事と承知しながら当方のみ家中離散とはどういうことかと嘆いております。われら家老がいかに説得致しましても、無骨者どもはいっかな承服せず、とても宥《なだ》めきれませぬ。申し上げにくくは存じますが、上野介様を御仕置下さるようにと申してはおりませぬが、ただ、御目付お二人様のお働きで家中一同が納得《なつとく》できるような筋を立てて下さいましたら、有難い仕合わせでございます。この段、御両使もし赤穂現地に御到着になりましてから申し上げたのでは、|城明渡しに支障をきたすかもしれませんので《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|今の内に《ヽヽヽヽ》言上申し上げます(城御請取り成り候|滞《とどこおり》にも罷り成り候処、如何《いかが》と存じ奉り、只今言上仕り候)。 [#ここで字下げ終わり]  もうひとつ『堀部武庸筆記』が伝える文面は、同じ主旨でもかなり色彩を異にする。これは相当カゲキである。 [#ここから1字下げ]  上野介殿御存生の由をうけたまわり、その上当城離散となりましては、どこに顔向けして生きてゆけるのか。この段が家中一同の存念でございまして、いくら説得しても田舎者のこととていっこう承服致しませぬ。けれども、安心して離散できるような筋に事を取り運んで下さるならば、そのときは格別。そうでなければ、お上《かみ》に刃向う気持はござりませぬが、われら一同、当赤穂城に立てこもって餓死する覚悟を決めております。その段ここに申し上げます(上ニ対シ奉リ毛頭|御恨ケ間敷《おうらみがましき》所存御座無ク候ヘドモ、当城ニ於イテ餓死ツカマツルベキ覚悟御座候。此段申シ上ゲ候)。 [#ここで字下げ終わり]  要するに、大石内蔵助はブラフをかけたのである。家中一同の無結束ぶりは、三月二十日の城内評議で百も承知であった。大石が念頭に置いていたのは、赤穂浅野家再興の一事であった。そのためには、家中全員が決死の覚悟でいると見せかけなければならなかった。籠城抗戦。しかし連判加盟の人数では城の大手さえ支え切れない。その実情を相手に知らせず、何としてでも言質《げんち》を取る必要があった。だから大石は多川・月岡両名に、江戸家老との接触を避けて、直接《ヽヽ》大目付両名にこの「願書」を手渡すようにと言い含めたのである。  ところが、多川と月岡は無能だった。「忠臣蔵」事件には人間個人のミスが局面を大きく左右する場合が間々《まま》生じる。これもその一つであった。二人が江戸に到着したとき、大目付両名はすでに任地に下向するために出発していた。なぜ大坂まで追いかけて行かなかったのか、と大石が激昴したと伝えられている。あわてふためいた多川・月岡は、人もあろうに江戸両家老の安井・藤井に相談にゆき、全部を喋ってしまった。大失態である。当然、大石の苦肉の策は戸田采女正にも浅野大学にも筒抜けになった。大石は四月になってから、赤穂に押しかけた堀部安兵衛らにこう釈明している。「籠城ツカマツリ候トモ、後日ノ沙汰、偏《ひとえ》ニ大学殿差図ノ様相|聞《きこ》ヘバ残念ノ儀ナリ。其ノ上、大学殿御身ノ上滅亡ニ及ビ名跡《みようせき》マデ断絶ニ至ルベシ」——籠城作戦を取っても、その狙いがこうも公然と知れわたったからには、すべて浅野大学の指図とされるであろう。浅野家再興はいよいよ不可能になる。だから「籠城ハ相|止《や》メ候ナリ」。これでオプションの一つは消えた。  多川と月岡は四月十一日にすごすごと赤穂に帰ってきた。大石にたっぷり叱責されたことであろう。だが、部下のミスにしつこくこだわっている暇もないほど日程は急テンポであった。多川・月岡は、戸田采女正のかなりきつい語調の説得書を持参してきていた。「紙面の趣き、家中の面々無骨の至りに候。御当地不案内の故に候」という文面である。ひとくちにいえば、赤穂家中の面々が無骨なのは、イナカモノで江戸の情勢がわかっていないからだという内容である。相手に対しては侮辱的であり、当人としてはヒステリックである。そのとおり。赤穂在藩武士はイナカモノであった。翌年の吉良邸討入りは、そのイナカモノだからこそできたのである。都会人の意表を衝いたのである。その話は後段。  言明には、つねに公式と非公式がある。右の采女正の返答書は前者に属する。つまり、公式記録として残ることを意識している。それとは別に、多川・月岡は、采女正の「口上」も持ち帰っていた。『赤穂城引渡覚書』(別名『岡嶋|八十右衛門《やそえもん》覚書』)という記録がある。岡嶋八十右衛門は、そのとき札座勘定方であり、城明渡しの計数明細を担当する立場にあった。四十七士の一人である。その岡嶋は、戸田采女正が書面のほかに口上で多川・月岡に伝えたこととして次のような情報を記している。第一に、采女正は、大石内蔵助の言い分を目付衆には伝えた。その意向は伝わっているが、大目付の職分では一大名家の存続・再興をいうまでの権限はない。だが、決して浅野大学に悪くは取りはからわないであろう。第二に、采女正家臣の中川甚五兵衛なる人物が多川・月岡にいった言葉として、「采女正殿が証人になってお城明渡しということですから、落度《おちど》なく事を運ばれるでしょう。ともかく采女正殿が念入りになさっていることですから、赤穂家中の願いが聞き届けられないということはありますまい」という一言を記録している。  これはけっきょく一片の外交辞令にすぎなかった。が、多川・月岡はそれを手土産にして、というか、取りすがって戻ってきた。実際のところは、『赤穂城引渡御用状』にあるとおり、「上の御仕置の筋、采女様仰せ聞かさるるべき様もこれ無く、縦《たとい》御存知候儀にても仰せ聞かされ難《がた》き儀に御座候」(幕府上層部の方針は采女正に知らされるはずはなく、たとえ知っていても口外できる立場にはない)というのが実情であった。大目付にすらそんな権限はない。大石内蔵助もそれを承知していたはずである。しかしどうしても家中動揺を抑えなければならなかった。その際の切り札が、「戸田采女正迄ハ御請ヲ申シ候」(『堀部武庸筆記』)の一言だったのである。  だが、当の戸田采女正は赤穂に乗り込んできたわけではない。現地ではその名代戸田源五兵衛が折衝にあたり、采女正は江戸からリモート・コントロールをしていた。多川・月岡がもたらした書面および口上は、開城やむなしの現実と浅野大学復権についての希望的観測とを同時に判断させる材料になった。それまで大石は粘りに粘ったのである。外部には手の内を明かさなかった。四月十一日付で広島藩の使者が浅野本家に送った報告書には、城明渡しがこのまますんなり実施されるとは思われない、という情勢分析がなされている。  ところが明けて四月十二日、大石は一転して、城明渡しに応ずる旨を中川甚五兵衛に通告する。大野九郎兵衛と連名連判の文書である。『江赤見聞記』巻一には大意こうある。 [#ここから1字下げ]  戸田采女正殿からかさねて制止のお言葉があり、こうなっては是非もなく、お城を無事に明け渡し、その上で何か了簡があるべきはずと相談をまとめ、その旨を同志の面々にも申し聞かせ、それからはひたすら城明渡しの実務手続きに取りかかり、万端の担当部署を定めております。 [#ここで字下げ終わり]  采女正がなんらかの保障を与えたという印象は、おそらくかなり意図的に、家中一同にひろめられたようである。第二次史料ではあるが、『忠誠後鑑録』は、再度の城内評定のみぎり、大石内蔵助・原惣右衛門・吉田|忠左衛門《ちゆうざえもん》らの老臣が、ともかくも「氏定(采女正)の御下知にまかせ、城つつがなく引き渡し、次いで大学一度召し出され、其の身規模(大名の身分——注)あるやうにと、御目付方までこれを願ふべし」と懸命に説得し、一座の面々を承服させたと伝えている。さきに抗議切腹論で混乱した家中を取りまとめ、最初のピンチを乗り切った大石は、今度は采女正の希望的ほのめかしをとっこに取り、無血開城論を大勢に引き込んで、第二のピンチを切り抜けたのである。浅野一族からの圧力、間に入った采女正の苦しまぎれの言質、家中の結束の弱さなどを評量した上で、大石はここで折れて出るしかないと決断を下したのである。  翌四月十三日には、大野九郎兵衛・郡右衛門父子が逐電した。大野九郎兵衛というと、後世からは「不義士」の代名詞のように見なされているが、それは「義士」史観からの見方である。九郎兵衛の出処進退は、いかにも経済官僚らしく一貫して合理主義であった。だが家中には血の気が多くて物騒な若侍も多かった。生命の危険すら感じたにちがいない。藩札処分をはじめやることはやった。後はさっさと撤退するにかぎる。大野九郎兵衛をめぐる後日譚は、いろいろ伝説化されているが、本書では以後それをたどることはしない。  同じ四月十三日、城内では旧家臣団への立退き料の配分が実施された。会計主任は前述した札座役人の岡嶋八十右衛門であった。数字の明細で、筆者も読者も苦労する必要はあるまい。福本日南の『元禄快挙録』を要約すれば、藩札換金の後に残った国庫金の総額は一万六千四百両と計上された。大石はそこから、(一)花岳寺そのほかの寺院への永代供養料、(二)亡君未亡人|瑤泉院《ようぜいいん》の化粧料(持参金)返納、(三)浅野家再興のための準備金を控除し——(二)と(三)に関しては、後で必要が生じたらまた述べる——、残りを家士への配分金に充てた。大石は一律平等分配ではなく、禄高の多寡に応じた比例分配、つまり上に薄く下に厚い一種のスライド制を採用した。この件はいちはやく岡山藩の忍びの者の探知するところとなった。前出浅野瀬兵衛は、「五百石以上、百石に付き十両ずつ、五百石以下、百石に付き十八両ずつ」というレポートを書き送っている。この種の諜報には、存外信用が置ける。いいかげんな情報は送れない。というのは、もし浅野家中が籠城の挙に出たとしたら、岡山藩はいやでも兵員を動かさなければならなくなるからである。  ◆赤穂無血開城[#「赤穂無血開城」は太字]  赤穂城明渡しは、四月十八日に整然と実行された。幕府大目付荒木十左衛門・榊原采女が検分のために城内に立ち入り、大石のほかに組頭奥野将監・用人田中清兵衛・大目付|間瀬久《ませきゆう》太夫《だゆう》が検分衆を案内し、実務が進行している間、湯茶などで接待した。これで城明渡しの「見届け」は公式的に済んだ。幕府への開城儀礼の手続き終了である。同日から城の周辺に詰めていた脇坂淡路守・木下肥後守は、翌十九日に城内に入って主として残された武具類の点検にあたった。槍、鉄砲、火薬、火縄、弓矢のたぐいである。帳面どおり整然と接収できるように仕分けられており、城内の清掃も行き届いていて、両目付が「諸事仕形無類の儀ども感じ入り申し候」と敬意を表したほどであった(『江赤見聞記』巻二』)。  御公儀ばかりではなかった。赤穂城下には広島藩からも監視役として例の井上団右衛門が滞在中であった。内匠頭は浅野一門の迷惑者と放言したあの井上である。井上は、最初は大野九郎兵衛が逐電して万事が大石ひとりの肩にかかってきたことを不安がっていた。ところが四月十九日の報告書では、城明渡しが首尾よく運んだことにすこぶる感服し、「帖・目録など数々の事候へども、随分《ずいぶん》念を入れ、滞《とどこおり》もこれなき由にて、御代官衆|肝潰し《ヽヽヽ》にて候」(『広島藩浅野氏使者報告書状』)と書き送っている。|いやみ《ヽヽヽ》な人物のいうことだから、これにはかえって真実味がある。  このようにきちんと実務を進めるかたわら、四月十八日に検分衆を城内に迎えていたとき、大石はいたいたしくなるほど慇懃に、両目付に向かって、くれぐれも浅野大学の再挙を取りはからってくれるように懇願している。荒木・榊原の二人は、職務権限を越えたこととて返答をしなかった。聞えないふりをしたのである。城中を案内して大書院で休息した折、大石は再度同じことを願い出た。これにも返事はなかった。そして三たび、いよいよ検分衆の帰り際になってから、大石は「再三恐れ存じ奉り候えども」と低頭してまた同じことを言上した。さすがに見かねてか、検分衆のひとりで下役の石原新左衛門が荒木へ向かって、内蔵助の申し分は余儀ないことだから、帰府の上で御沙汰されても別条はないのではないかと口添えした。荒木十左衛門もやむなく、江戸に帰着したらその件を老中衆に申し上げようと返答した。同意を求められた榊原采女もなるほどもっともだ、と答えた。両目付は口約したのである。  これはその場しのぎの逃げ口上だったかもしれないし、言上はしたが老中のだれかに握りつぶされたのかもしれない。しかし、そんな口約束に取りすがらなければならないほど、大石は苦境に立たされていた。城明渡しはともかく無事に済んだ。ただその条件は、大石が確約ではなく希望的ほのめかしとして与えられ、完全な保障のないことを知りながら家中に提示した主家再興であった。この期間中、そしてその後も、大石の立場は非常に苦しかったのである。  話は少し先行するが、原惣右衛門と岡本次郎左衛門が五月十二日に赤穂を発足して大坂で工作している(六月三日帰着)。参勤交替の途次にあった三次藩主浅野土佐守の一行をつかまえ、土佐守を通じて広島本家に働きかけようとしたのである。しかし、近習からの返事はすげなかった。内蔵助の存念はもっともだが、「さりながら只今大学殿閉門の内にて候えば、この内は公儀向き諸事御遠慮に思《おぼ》し召し候えば、|御役人御手入れなど遊ばされ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》難《がた》|き儀《ヽヽ》と存じ候」(『赤穂城引渡一件』第三)。つまり、こんな時期に大学再挙のことを持ち出すなどとんでもない、という返答だったのである。  原・岡本が連署した土佐守の大坂用人久保田源太夫に宛てた手紙は、大石の窮状を切々と訴えている。「家中の者ども大学殿安否にかかり、存亡の安心成り難く、末々の侍どもは事品をわけて考へず、御一門中様一言を出《いだ》せられ候えば事ととのひ申すべき儀を、(内蔵助が)歎きを申し上げずと|内蔵助一人を恨み苦しみ申す体黙止し難く《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、諸事|顧《かえり》みず申し達する儀に御座候。」(家中の侍たちは、大学様再挙の儀は、浅野家御一門様が幕閣に御一言なされば実現することなのに、内蔵助はなぜそう歎願しないのか、と誤解し、内蔵助一人を恨み、苦しめているありさまは黙って見てはいられません。失礼をもかえりみずお手紙を差し上げる次第でございます。)  旧赤穂家臣団三百数名は、後に討入りに加わった四十六ないしは四十七士だけが「義士」だったのではない。大野九郎兵衛とその一派だけが「不義士」だったわけでもない。その大半の人士の心情は大きく揺れ動いていたのである。城明渡し前後は、集団心理もはたらいて、人心はきわめて不安定であった。辛うじてそれを一つに取りまとめていたのは、浅野家再興という大石の「公約」(じつは「空手形」)であった。大石がどうしても欲しかったのは、御公儀からの「上むき御沙汰」(なんらかの公式表明、いわゆるお墨つき、——『赤穂城引渡一件』第三)であった。それがまだないのである。  『堀部武庸筆記』は、江戸から赤穂に出てきた高田郡兵衛・奥田孫太夫・堀部安兵衛の三人組が、大石の言葉になお不満だったことを記している。内蔵助は家老の立場だから仕方がない。内蔵助ははずしてしまえ、ということになって籠城討死論を番頭奥野将監のところへ持ち込んだ。が、将監は何ごとも大石に一任といって取り合わない。それならば将監もはずしてしまえ、というので「家中の志の者共」と相談したが、いずれも大石に心服していて埒が明かない。けっきょく再度大石と面談して、「マズ此度ハ内蔵助ニ任セ候ヘ、是レ切《ぎ》リニ限ラズ、以後ノ含ミモ有リ候」と釘を刺されて、しぶしぶ承諾したといういきさつになった。三人は四月十八日の城明渡しまで見届けて、二十一日に江戸に引き揚げた。その間四月十六日には目付衆・代官衆が赤穂城下入りをしており、三人組はすこぶる不穏な眼つきで相手とすれちがって、周囲をはらはらさせたらしい。——以後この三人は在江戸ラディカリズムの中核になる。そればかりか、大石内蔵助が赤穂を退散して所在をくらましてからの一時期、『堀部武庸筆記』は重要な一級史料として扱うことができるのである。  四月十六日、赤穂城下には両目付連名の高札が掲げられた。「家中の輩《やから》、城下引き払ふ儀、十左衛門・采女ならびに御代官到着より三十日限りたるべし」という文面である。家士のうち「給人《きゆうにん》」——藩内に知行地があり、年貢と俸禄が相殺される土着の武士——は、残留も退去も自由とされた。また、士分を離れて百姓・町人の格で居住することも認可された(以上『赤穂城引渡一件』)。このように比較的ゆるやかな条件下で、三百数名の旧家臣団は思い思いに赤穂を離散していった。五月十一日には、大石も赤穂を立ち退いていたらしい。おそらくは浅野大学の用人と思われる人物に宛てた書信には、自分はいま伏見近辺に居住しているから、以後の連絡は伏見の大塚屋小右衛門宛てにしてくれればすぐに自分に届く、と書き送っている。  家中は離散したが、大石内蔵助自身はもちろんのこと、旧家臣団ではまだ多くの人士が赤穂藩が取りつぶされたままでおめおめと引き下がるつもりはないという気持でいた。その輿望《よぼう》を担っていたのが大石であった。大石はこの時点では、浅野大学再挙にすべてを托していた。五月十六日、京都の普門院宛てに書状一通をしたためている。同寺の住職が護持院と懇意にしているところから、何卒江戸で運動していただけぬかという依頼である。江戸神田の護持院は、綱吉の生母桂昌院が深く帰依していた寺であり、大石はそんなわずかなコネにたよってまで、「公儀向き御取り繕《つくろ》い」を頼み込もうとしたのである。この書状を持参したのは原惣右衛門・岡本三郎衛門であったが、届かなかった。突っ返されたのであろう。  大石内蔵助は、『堀部武庸筆記』によれば、四月二十五日に赤穂から「出帆」——海路上方へ移動したのであろう——し、山科の西山村に落ち着いたと報じている。山科と伏見は東山連峰をへだてた隣接地である。連絡先はやはり伏見の大塚屋小右衛門宛と指定している。この書状の日付は六月十二日であるが、大石は去る五月十一日から左腕に疔《ちよう》(はれもの)ができ、いっときは治癒したと思ったが余毒再発、いよいよ悪化して寝込んでしまった。「デキモノハ腕一パイニ腐リ申シ候」とあるから、これは相当な重症だったのである。無理もなかった。殿中凶変の通報が届いた三月十九日から城明渡しが無事に済んだ四月十九日までのまる一箇月というもの、藩札処分、藩論統一、浅野一門応対、幕府折衝、混乱回避と、あらゆる実務責任は大石ひとりにのしかかり、沈着と懸け引きの腹芸が一身に要求され、そのストレスは想像するだにすさまじかった。どこかに症状が出ないのがおかしいのである。  いわゆる山科閑居の後しばらくの期間、大石は自己の身辺を韜晦する。その動静は、幕府や諸藩の公式記録といったかたちでの史料からは探れない。ここ当分の間、いちばん確実な手がかりになるのは、『堀部武庸筆記』に残されている江戸と山科との往復書簡なのである。  ◆江戸と山科[#「江戸と山科」は太字]  江戸では、堀部安兵衛らの三人組が欲求不満でいきりたっていた。亡君の遺恨を晴らすために吉良上野介の首を取ろうと江戸在住グループの間を奔走し、一人一人の心底をたしかめてまわったが、みんな|あいまい《ヽヽヽヽ》に言葉を濁すだけで、賛同者は四、五人しかいなかった。三人組は文字どおり切歯扼腕していた。そして特にアタマに血をのぼらせるような対話が、元禄十四年(一七〇一)六月二十四日、亡君百箇日の法事の席上でなされている。のらりくらりと逃げる元江戸家老安井彦右衛門と三人組とが正面衝突したのである。 [#ここから1字下げ] 安井[#「安井」はゴシック体]「まったく同感でござる。そなた様方のお考えはもっとも至極。そこまでのお志《こころざし》、神明に誓っていま始めて承《うけたまわ》った。その時節が来たら同意致そう。しかしながら、大学殿の御首尾が万事よろしく運んでいるとのもっぱらの風聞でござるし、柳沢(吉保)殿の御家中からも大学殿は悪いようにしないとも承ってござる。御閉門中のこととて慎重にという御意見でござった。浅野の御家が再興されたならば、上野介の首を御覧になるよりは御祖父長直様の御家を起される方がいかばかり亡君の御喜悦になることでござろう。大学殿御首尾を見届けるのが第一でござろうぞ。」 堀部[#「堀部」はゴシック体]「亡君の御祖父の家を大切になどとお考えでは、この鬱憤を晴らすことはとてもできませぬ。亡君が二つとない命をお捨てになったからに、上野介の首をさえ御覧に入れれば御心に叶うことでござる。だいいちお手前様もわれらも、亡君を主君と仰ぎ奉ったからには、いつまでも亡君に御奉公つかまつるべき儀と考えまする。大学殿の御家を立てて、主君の敵を見逃しておくという義理はござらぬ。|亡君の仰せとあらば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|大学殿へも手向かい申すのがわれらでござる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。」 [#ここで字下げ終わり]  特に右の傍点部などは、端的に在府グループ中の武闘派、いわば江戸派ラディカリズムの心情を示しているといえよう。ところが旧家臣団の内部対立は、恭順復興派と武闘派とのそれに色分けできるほど単純ではなかった。ほかに磯貝十郎左衛門・松本新五左衛門などの小グループの動きもあった。磯貝は亡君の遺骸を埋葬し、剃髪して赤穂に赴き、城内評議の後の連判に加わらなかった人物である。おそらく、独自の斬込み計画を立てていたにちがいない。だが、磯貝らはなぜか堀部グループと接触を絶ってしまった。『堀部武庸筆記』は、「其以後何トカ思案致シケン、心替リシテ音信不通ニ成リ、源助橋辺リニ酒店ヲ出シ、不通ニ(ぷっつりと)人ニ出合ハズ、町人ノ体ニ成リケル。余リノ事大笑致シケル」と記している。  後に討入りの一党になる面々も、この時点ではまだたがいに疑心暗鬼だったのである。堀部は大石に「ケ《か》様ニ御当地(江戸)ノ者共腰脱ケ候テハ本意遂ゲ難ク候。兎角上方ノ者共へ調《ちよう》ジ合スルヨリハ外ハ有ルベカラズ。罷リ登リ江戸表ノ様子|篤《とく》ト申シ談ズベシト支度致シ候」と書き送った。先方からは|来ることかならず無用《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という返事が来た。というのは、「上方の者共」も堀部が期待していたほど結束が固まった状態ではなかったからである。  城明渡しに先立って作られた大石一任の連判状は六十名といわれ、『江赤見聞記』巻一にはそれ以上の人数の名前も載っているのをあえて記さなかったが、それはしょせん烏合の衆だったからである。遠国の縁者をたよって退散した者もあり、在地郷士化した者もあり、|つて《ヽヽ》をたどって再仕官し、そのために新しい主家との板挟みになって悲劇を招いた者もいた。堀部安兵衛のいう「上方の者共」も動静はまちまちだったのである。だが、最後まで脱落しなかった面々には、江戸、上方を問わず、一つの共通性がある。主家《ヽヽ》浅野家への古風な忠誠心である。『赤穂義人纂書』や『赤穂義士史料』に残されている書簡類から主として上方側の人士の心情をいくつか拾い出してみよう。たとえば京都用人だった小野寺|十内《じゆうない》。この十内の心境は、「虫同然の小家の者共、かつまた籠城して運を開くべき為の事にもこれ無く」(こんな小藩にそこまでの抵抗力はない)、「ただ城中にて各自自滅の覚悟にて候」というものだった。「今の内匠殿には格別の御情にはあづからず候へども、代々御主人くるめて百年の報恩、または身不肖にても一族日本国に多く候に、ケ様の時にうろつきては、家の疵、一門の面汚し、面目もなく候ゆゑ、節に至らばいさぎよく死ぬべしと確かに思ひ極め申し候」という心情論理。意外なことに、十内はそれまであまり大石内蔵助のことをよく知らなかったらしい。四月三日に京都から赤穂に到着して大石に会い、家中の「寸志有る者は内蔵助|え《ママ》懸りて右の通り申し達せしかと相見|へ《ママ》申し候。内蔵助の働き、家中一統に感ぜしめ候。進退を任せ申し候と相見へ申し候」という具合に、相手への認識を改めたのである。難局にぶつかってもたじろがず、遅滞なく事を取りさばき、「さてさて不思議の時節到来、名誉の状進み候」と十内は大石への讃辞を惜しんでいない(『小野寺十内書状』、四月七日および十日付)。  三村次郎左衛門は、知行わずか七石二人扶持という身分の酒奉行であった。計理に堪能だったのだろうか、城明渡しのとき領内の帳面作製の繁務に三村は大いに尽力し、無事に引渡しが済んだ後、大石はこの軽禄の下役をねんごろにねぎらった。三村はその謝辞をもらったときの嬉しさを忘れなかった。相手に心服し、どこまでもついて行こうという気になった。大石が赤穂を離れて山科へ移った後も、つねに安否を気遣っていた。「江戸へお越し遊ばされ候儀も今に相知れ申さず候由、爰元《ここもと》にては相待ち居り候」とじりじりした気持にもなっていた(『三村次郎左衛門書状』、八月十日付)。しかし、大石はまだ何の動きも見せなかった。  萱野三平は、京都大徳寺の塔頭《たつちゆう》に浅野内匠頭の墓碑を建立したことを盟友の神崎与五郎《かんざきよごろう》に報じ、そのついでに大石の近況をも伝えている。「大学様御同前にて御座候由、いかさま御延引は御為よき方にこれあるべきや申す沙汰にて御座候。内蔵殿へも先頃相尋ね御目に懸り、先々江戸へ御下向も御無用に御|究《き》めなされ候由|御噺《おはなし》にて御座候き」——大学閉門はずっと以前と同じで、人々の間にはこのまま御延引なされるのは御為にいかがなものかという沙汰があると水を向けてみたが、まあさしあたりは自分が江戸に下向しても無用だろうという話だった、というのである(『萱野三平書状』、九月一日付)。実際のところ、大石はこの時期まったくの手詰りだった。萱野三平は、連絡場所を大坂の室屋仁右衛門方と指定している。赤穂浪士団の上方勢は、このように京大坂の近郷近在に散らばり、たがいに連絡を絶やさなかった。しかし、一類の間柄がかならずしもしっくり行ってなかったことは、上方グループも江戸グループの場合と同様であった。  さて、江戸と山科の間のコミュニケーションがうまくいっていなかったまさにこの時期、情勢に一つの転機が生じた。元禄十四年(一七〇一)八月十九日、吉良上野介は幕府に屋敷替を願い出、呉服橋内から本所の新邸への転居が許された。堀部安兵衛らはこれを絶好のチャンスと判断し、さっそく山科の大石に通報した。  屋敷替の背景に何があったのかはよくわからない。だが、呉服橋内の隣り近所の大名家から苦情が出ていたのは事実である。『江赤見聞記』巻四には、隣り屋敷の蜂須賀飛騨守が懇意の老中に、もし吉良邸で騒動が起きた場合にはどうしたらよいかと伺いを立てたところ、「一切構ひこれあるまじく候」という返事だったと書いてある。冷淡そのものであった。おまけに『堀部武庸筆記』には、吉良家の縁筋にあたる水野隼人邸でこのことが話題になり、お伽衆が「これはまるで御公儀が故内匠頭の家来どもに上野介殿を討てとおっしゃっているにひとしいお仕向けではありませぬか」といい、水野も「なるほどその通りだ」といったというエピソードまで書き添えている。これは幕府が蔭で赤穂浪士団に暗黙の支持を与えていたという俗説の根拠として用いられている。ともかく幕府は近所迷惑を何とかしてくれという抗議殺到に手を焼いていた。何はともあれ、都心から追っ払ってしまえ。本所の旗本松平愛之助旧邸は「上り屋敷」(空家)でサラ地同然だったから普請に手間取り、転居は十二月十三日になった。安兵衛は好機到来と見たのである。  情勢は動き始めた。九月某日、原惣右衛門が潮田又之丞《うしおだまたのじよう》・中村|勘助《かんすけ》を同道して下府。江戸三人組と会談した結果、堀部グループの意見に完全に同調する。ミイラ取りがミイラになってしまったのである。次いで十月八日、進藤源四郎と大高源五《おおたかげんご》が連れ立って下府。この二人はあまり仲が良くなかったが、「委細何レモ談ジ候処、上方ニテ存ジ候トハ違ヒ、三人ノ所存尤ニ候」とやはり意気投合してしまった。要するに江戸ラディカルズと上方ラディカルズとの間に直接のパイプがつながって、手をたずさえたのである。  大石はあわてた。十月五日付のこんな書信もすでに受太刀である。「兎角(浅野大学の)安否次第ノ事、時節相待チ候ハバ善悪相知レ申スベキ事ニ候」というのであるが、堀部安兵衛はもうそれに取り合わなかった。十月二十九日にはおそろしく強気な書状を送る。 [#ここから1字下げ]  仮令《たとい》同志ノ内外ノ了簡コレ有リ延引致シ候トモ、来三月御一周忌回ノ前後、同志ノ輩《やから》、義ノ為ニ彼宅《かのたく》ニ於イテ討死ツカマツルベキ事、忠ヲ為スベキ道ト存ジ極メ候。右ノ月日過ギザル様、心ニ及ビ候程|志《こころざし》ヲ尽シ、鬱憤ヲ散ズベキ者ナリ。此ノ如ク申シカワシ候上ハ相違有ルベカラズ候。 (たとえ同志の間で意見の相違があるからという理由で延引なさろうとされても、我らは来年三月の亡君御一周忌の前後に、同志一同をもって吉良邸に斬り込み、討死するのが忠義であると一決致しました。右の月日が過ぎぬうちに心のかぎり企てをつくし、亡君の鬱憤を晴らす決意であります。このように決断したからには、今後いかなる違背もございませぬ。) [#ここで字下げ終わり]  これは事実上の最後通告である。堀部ら武断派は上方の同志たちと新たに結んで、みずからのイニシァティヴで動き始めたのである。当惑した大石は、ついに自分自身が江戸に出向くほかはないと考えた。十一月二日に江戸下着。同行の面々は、奥野将監・河村伝兵衛・岡本次郎左衛門・中村清右衛門といった顔ぶれ。これらの名前は、後の討入りの連盟に一人も加わっていないのを見ると、大石は慎重派、穏便派ばかりをぞろぞろ引き連れてきたといわれても仕方がない。密談は江戸某所の大石の旅宿で行われた。大石の主張は、「三月いっぱいと期限を定めるには及ぶまい。三月以前に時節が来るということもあるかもしれない」と相当|あいまい《ヽヽヽヽ》であった。堀部らはとにかく期限を定めようと押しまくった。 大石は押されっぱなしで、けっきょく折れて出た。「よろしい。それならば三月中に結論が出るように、当方もいろいろ手を打ってみよう」と確言したのである。『堀部武庸筆記』の本文には「手遣《てづかい》」とあるこの言葉は、おそらく諸方面への政治工作を意味している。|いつまで《ヽヽヽヽ》という目処の立たない「大学様御安否」では、ずるずると引き留めてはおけないと判断を下したのであろう。  そこで進藤源四郎が、ほどよい頃合いで発言した。赤穂の諸士が江戸に集まって談合するのは、かならず世の取り沙汰になるだろうから、今日はこのぐらいにして、近日中に京都あたりで最終決定を下す会合を開いたらどうか。後日の世にいう「山科会議」の提案である。大石はもちろん同意し、堀部らも受諾した。その後、大石は十一月二十三日まで江戸に逗留し、あの幕府大目付荒木十左衛門・榊原采女と何ごとかの交渉にあたった。|いろよい《ヽヽヽヽ》返事がもらえたかどうかはわからない。しかし、大石としては取りすがる思いだったろう。たしかに、城明渡しのみぎり、浅野大学に悪いようには取りはからわないとの言質は得た。だが今回は、大石は期限をつけられている。しかもその事情は、相手方には口が裂けてもいえないのである。  原惣右衛門と大高源五は、江戸で家屋敷を購入して残留した。にわかに活気づいた堀部グループは、十二月二十七日に、大石内蔵助宛て、潮田又之丞・中村勘助宛て、原惣右衛門・大高源五宛ての全三通の書状を発送した。いずれも本所の吉良邸についての情報がメインである。すでに偵察探知活動が開始されていた。要点は、「二、三箇所手筋」をもって探索したところ、新邸の普請はあらかた済み、三月中句には上野介が本所にいることは間違いなく、最近は本所屋敷への商人の出入がきびしく監視されている、というのである。  ところで、今まで堀部グループという言葉をごく自然に使ってきたが、事実をいうと、ここに一つ思いももうけなかった事態が出来していた。右十二月二十七日の三通の書状には、どれにも高田郡兵衛の連判がない。「病気故|判形《はんぎよう》つかまつらず候」と記されている。が、じつは郡兵衛はとんでもない窮地に落ち込んでいたのである。郡兵衛の父方の伯父に内田三郎右衛門という幕府旗本があり、郡兵衛の兄高田弥五兵衛を介して、郡兵衛を養子にしたいと申し入れてきた。この三郎右衛門は、「日来《ひごろ》片向キナル者ニテ自分ノ料簡バカリヲ申シ、理ノ聞キ分ケ無キ人物」と評されている。どうしようもない偏屈者だったのである。弥五兵衛が迂闊にも弟の実情をしゃべってしまったので、三郎右衛門は驚愕かつ逆上。それは御公儀の御仕置に遺恨をさしはさむ不届きな存念であり、自分の組頭に申し立てるとわめき出す騒ぎになった。江戸三人組は思案の末、この際高田郡兵衛は脱盟させるしかないだろうと決めた。しかし当分の間、このことは伏せておく。特に上方グループには知られないように秘密を守る。そういう申し合わせで、都合の悪いことは押し隠したままで、大石内蔵助に圧力をかけたのだから、堀部安兵衛もしたたかな男であった。  そうこうするうちに年が改まって、元禄十五年(一七〇二)の正月になった。山科会議を日程のうちににらんで、江戸・山科間の緊張はいよいよ強まってゆくのである。  ◆山科会議[#「山科会議」は太字]  元禄十五年(一七〇二)正月十八日に大石から受け取った書状(前年十二月二十五日付)は、堀部安兵衛を憤慨させた。大石はいったん約束したことを反故《ほご》同然にしたのである。吉良邸討入りと決めたからには、幾重にも慎重に事を運ぼうと忠告しているのだが、実際にはまたぞろ延引論である。文中「普請」という言葉は、準備工作という意味である。「普請ノ義少《いささか》モ御沙汰ナシニ穏便ニ御心得ナサルベク候」というのはそれでよい。だが、「御隠居ハ御心ノ儘ニツカマツリ、若旦那ヘヨク面談申スベク候」とは何事であるか。上野介が老齢死去しても子息の吉良左兵衛を狙えばよいではないか、というのはまたもや引延ばし作戦以外の何ものでもない。  また同じ十二月二十五日付で、堀部安兵衛の養父|弥兵衛《やへえ》に届いた書状の文面も、安兵衛をかっかとさせるに充分であった。「木挽《こびき》沙汰なく普請取立テ候段ハ本意《ほい》無ク候」——この「木挽」・「普請」という暗号めいた文章は、木挽町にいる浅野大学の了解を取りつけないで工作を進めるのは本意ではないという意味である。安兵衛はさっそく堀部・奥田の連名(高田郡兵衛の名前なし)で、一月二十六日、大石に激烈な返事を送った。要点は以下の三項にわたる。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] (一) これまでとかく見合わせてきたのはひとえに「大学様御安否」のためであった。それはいつまでも明確な見込みが立たないから、見合わせても意味がないと一議した時節になってふたたび木挽町のことを言い出すのは何とも不審であり、納得しかねる。 (二) 同志一同が「イラチ」(鬱憤)を感じているのは「家督」(吉良左兵衛)ではなく、「隠居」(上野介|当人《ヽヽ》)である。「隠居ノ義第一ト存ジ、イラチ申ス儀ニテ御座候」。 (三) お手前様(大石)ひとりが決断して下されば、家中過半の者が御下知にしたがうことは知れきっております。御一人のおためらいで、大勢の人間の志がむなしくなってしまうのは心外でございます。何やかやとおっしゃっている間に、半年が過ぎ、一年が過ぎるということはあってはなりませぬ。 [#ここで字下げ終わり]  安兵衛はさらに一月二十六日、原惣右衛門・潮田又之丞・中村勘助・大高源五に宛ててそれぞれに一通を送っている。自身の大石への返事を「一書一点相違無」く書き写して同封するという念の入れ方である。それに先立つ一月二十二日、内蔵助の伯父小山源五右衛門に一通を書き送っているが、これなどは明らかに牽制球であろう。「心外ナガラ内蔵助殿手ヲ切リ候テナリトモ、潮田又之丞殿始メ申シ合ワセタル義ニテ御座候。(中略)内蔵助殿御承引ナク候テモ、二十人コレ有リ候ハバ、三月中ニ是非(吉良邸に)押込ミ、父子ノ首ハ此方《こなた》ノ者ト存ジ罷リアリ候」——この一報は、かならず大石の眼に入るに決まっている。|あなたと手を切ってでも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、吉良邸討入りは決行しますぞ、というメッセージである。この懸引きはすごい。安兵衛は、口ではこういっても、大石の下知がないかぎり、討入り実行に必要な手数が不足することを知っている。大石は大石で、いまもし失敗してももともとで安兵衛らに暴走されたら、浅野家復興など消し飛んでしまうことを知っている。もうすでに山科会議の前哨戦は始まっていた。  敵に勝つためには、まず味方の内部闘争を制覇しなければならない。堀部安兵衛の意を体して、原惣右衛門と大高源五が上方に旅立った。二人は元禄十五年(一七〇二)一月九日に、京都に到着した。上方の同志たちとの折衝の後、原はさらに十六日に大坂に下向した。予定されていた山科会議は、開催以前から波瀾ぶくみであった。原・大高の上方参向はその下準備であり、江戸の模様を伝えてそろそろ「切狂言」(討入り決行)を思い立とうと提議する心づもりであった。だが、反応はあまり芳しくなかったのである。  大高源五の書状にはこうある。「急ニ事ヲ遂ゲ候ハントノ筋ニハ候エドモ、|カタマリ申サズ《ヽヽヽヽヽヽヽ》候。何共《なにとも》々々|ナマニヘ《ヽヽヽヽ》(生煮え)ニテ気ノ毒千万ニ候」(一月十七日付)。また同じ書状には、大石の伯父の小山源五右衛門は内股膏薬だという悪口も記されている。なるほど、江戸と上方の両ラディカルズは手を結んだ。しかし、上方の同志はまだ煮え切らず、期待していたほどの結束は見られないという現実が二人を待ち受けていたのである。  右の大高源五書状を境にして、『堀部武庸筆記』には顕著な違いが現われる。「是ヨリ高田一巻委細書キ取ル」と明記されている。郡兵衛からこまかな事情聴取をして、秘密は一切伏せた。そして、これまでの堀部安兵衛・奥田孫太夫・高田郡兵衛三人共通の覚え書は、以後、安兵衛のみの個人記録になる。安兵衛はまず、万やむをえず、高田郡兵衛の脱落を大石はじめ上方同志勢に通報せざるをえなくなった。これは山科会議に向けてはマイナス材料、いや、重大な失点になったといわざるをえない。  大坂からは一月二十日付の原惣右衛門の書状が、京都からは二月二日付の大高源五の書状が、安兵衛のもとに相前後して届いた。内容は、ほとんど異口同音である。両者ともに、いま堀部安兵衛が上方に上っても|無駄である《ヽヽヽヽヽ》といっている。上方では延引論が大勢を占めている、大石内蔵助だけではなく、下々《しもじも》の連中までがすっかりそれにオルグされている、というのである。原はいう。「此中《このじゆう》ハ是非六、七月迄見合セ申スト申ス議申シ談ジラレ候。山科(大石)其ノ通リニテ、末々《すえずえ》意味違ヒ申スベク候ヤト存ジ候|処《ところ》(大石はそうであっても、下部の同志は意向が違うだろうと思っていたが)」、そうではなくて「前方鋭《まえがたする》ドニ存ジ詰メ候衆モ、此方ノ意味不同心ニ相見エ申シ候」という現状である、と。  大高はいう。やはり安兵衛は上方下向を見合わせた方がよいと思う。「幾度モ々々々申シ争ヒ候ヘドモ(上方の同志は)一円《まったく》動キ兼ネ申シ候」と。そればかりではない。堀部安兵衛が出向いて来て激論を交したら、小田原評定になるのは眼に見えているし、「味方崩れ」(内部分裂)も起きかねない。大高源五はめちゃくちゃに苦労したのである。「サテゝゝ種々心魂ヲクダキ候段、セメテ御察シ下サレタク候」というのはただの愚痴ではなく、精魂つきた呻きなのである。  原・大高両名は、もちろん大石当人とも直談判している。原惣右衛門は、大石に向かって、|われわれとしては《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、次のいずれかの手段を取るつもりだと通達した。第一——木挽町見合せは一切せず、もし討入りが実行できず、三月以後になって四月に米沢に引き取られることになったら、途中で襲撃する。またもし米沢が上野介を引き取らなかったら、なんらかの方策を立ててかならず埒を明ける。第二——どうしても木挽町の首尾を見合わせるということで衆議一決したならば、その後は吉良邸討入りは不可能になるだろう。われらの大義を書面で天下に公示して、その上で重立った者が切腹して誠意を示す。この二つのどちらかに決定していただきたい。  それに対する大石の回答は以下のとおりである(二月三日付、大高源五書状)。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] (一) 木挽町(「大学様御安否」)はいつまでも放置しておくつもりはまったくない。通例として、閉門処分は三年で御免になり、開門になるものである。だから、後ほんのしばらくの間、成行きを見届けて、残念なことにならないようにするのが第一ではないか。来年の亡君三回忌も過ぎ、広島浅野家が何の配慮もなさらず御帰国になられるようだったら、これ以上見合わせる必要はもはやない。とにかく三回忌が済むまで待って、その上で見切りをつけようではないか。 [#ここで字下げ終わり]  三回忌とは、人の死後三年目にあたる忌日のことである。まるまる三年間ではない。二年間プラス一日である。この場合は、元禄十六年(一七〇三)三月十四日である。大石の苦肉の延引策——必死の時間稼ぎ——であることには間違いない。だがまた同時に、これはまぎれもなく|期限つき《ヽヽヽヽ》であった。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] (二) これは本文をまず掲げるほかはない。文意がかなり不可解なのである。大石は最初に、原惣右衛門が木挽町にしかるべきお手当てがあったら、その後復仇はできなくなるといったことに対して、そうではないと反論する。「縦《たとい》イカ程ニ高禄ニ御取立テ候テモ、先方ノ事、何卒《なにとぞ》木挽町ノ御面目ニモ成リ、人前モ成サレヨキ程ノ品コレ無キニ於テハ、迚《とて》モ穢《けが》レタル御名跡《ごみようせき》ヲ立テ置キ候ハンヨリハ打《うち》ツブシ申ス段、本望ト存ゼラレ候条、宿意ヲ遂ゲ候所ニオイテハ、御安否見届ケ候程ニトテ少《いささか》モ邪魔ニナリ申ス道理コレ無シト存ゼラレ候由、右ノ趣《おもむ》キ山科(大石)思召シニテ候。」 [#ここで字下げ終わり]  文末からわかるように、これは大高源五が大石内蔵助と面談し、大石が口にした言葉を安兵衛に伝えた文面である。筆者ははじめ、これは大高源五の意見ではないかと思った。それほど、大石のこの発言は過激である。汚名を浴びた浅野家の御名跡を立てることで満足するくらいなら、それを潰してでも吉良の首を取る方が本望だ。伝写に問題があるかもしれないと考えて、それぞれ写本系統を異にする『赤穂義人纂書』本・岩波日本思想大系『近世武家思想』所収本・赤穂市史編纂室編『忠臣蔵』史料本をつきあわせてみたが、|てにをは《ヽヽヽヽ》の違い以上の差異は三系統にまったく存在しない。これは大石のホンネと読んでよいのである。  最小に評価すれば、大石は大高源五説得のために幕府が浅野大学にどういう所遇を与えるか見きわめ、処遇次第では浅野家の名跡をつぶしてでも宿意を遂げると明言したことになる。もっとも読み方によっては、大石自身の鬱憤をここで端なくも吐露していることになる。いずれにせよ、このとき大石は、「堅キ神言ヲ以テ」と誓約し、「御三年忌過ギ候テ、何ノ手筋モ見エ申サズ候ハバ、誰彼《だれかれ》イカ様《よう》ノ相談ニ及ビ候トテモ、一日モ見合ワセ申スマジキ覚悟」であると言い切っている。後日判明するように、この確約について大石内蔵助は、|武士に二言はなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のである。  山科会議は、二月十五日から数日かけて開催された。かなり激論がたたかわされたであろうが、不思議なことに『堀部武庸筆記』にはその記載はまったくない。『江赤見聞記』もここをスキップしている。いうまでもなく、山科会議は秘密会談であり、議事録が残されるという性質のものではない。だがそれ以上に、そもそも堀部安兵衛が出席していなかったからであろう。出て来ても無駄だ、と原・大高からいわれていたのである。それほど大石の根回しは利いていた。江戸武闘派も呑むほかはなかった。安兵衛は、「上方一同一決ノ上ハ是非ニ及バズ存ジ候間、何《いずれ》モ一同ニ覚悟相極メ、時節ヲ相待チ候テコレ有ルベシ」と返答を書き送っている(三月六日付)。  それに先立って二月十六日付で——山科会議の大勢が決してからであろう——大石は、池田久右衛門《ヽヽヽヽヽヽ》という変名で、安兵衛にこう一報している。 [#ここから1字下げ]  親兄弟を眼の前にしてわれわれが上野介を討ち取ったら、そのまま上杉・吉良兄弟が黙って済ますという道理はまかり通りません。ですから木挽町までこっぱみじんになることは知れ切ったことではないですか。亡君のため忠義を尽すといわれるが、その結果、赤穂の御家も根も葉もなく打ち枯らしてしまって、それでも忠義であるとばかりはいえますまい。 [#ここで字下げ終わり]  山科会議を制した余勢とはいえ、大石はたっぷり器量を示して、堀部安兵衛の血気をたしなめている。大石は江戸武闘派暴走のピンチを食いとめたのである。  大石は盤石ではなかった。  山科会議では大勢を制したものの、不確定要素がいくつもありすぎた。第一に、「大学様御安否」の確定した保障はどこからも得られていない。第二に、今回はどうにか押さえこんだ江戸「暴走族」がいつまた物議をかもしだすかわかったものではない。第三に、米沢上杉家の当主が参勤交替で江戸に上り、吉良上野介の身柄を米沢に移す可能性大である。第四に、来年三月まで延引という方針で連盟者の数はふえたが、それは反面、いざというとき信用しきれぬ人員を多く抱え込んだことにもなる。大石の構えは和戦両様であった。少なくとも、同時進行であった。が、「和」ではなく「戦」となったとき、いったい何人が踏みとどまるであろうか。『江赤見聞記』巻四は、元禄十五年(一七〇二)の八月頃まで、「一味同心の者都合百二十人余りも御座候」と記している。それが大石の標榜した浅野家復興第一主義のゆえに生じた水ぶくれだったことは、後日の経過でわかるし、大石自身も見抜いていたはずであった。  世に名高い大石の遊蕩はこの頃から始まった。「内蔵助こと、まつたく活気なる生れ付き故、京都に於いて遊山《ゆさん》・見物等の事に付き、|宜しからざる行跡《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》もこれ有り。金銀等も惜しまず遣ひ捨て候」——たいへん面白いことには、『江赤見聞記』は掛け値なしに大石が不行跡《ヽヽヽ》だったと明言している。敵の眼をくらます手だてだった、などとはいっていないのである。大石は本気で遊び狂っていた。そうだったから、吉良方のスパイも本気であれでは「此方《こなた》へ意趣など含み申し候これ有るまじ」と思い込んでしまい、探索の手をゆるめたのだといっている。真相はそんなところだったと思う。  不確定状態は、人間の心理を不安定にするものである。自暴自棄になった方がいっそ気が楽だという場合もあるだろう。しかし、大石は人望を集めた総指導者であり、とてもそうなれる立場にはなかった。ストレス解消は酒色の巷にかぎる。大石は京都や伏見の遊廓でさんざん浮き名を残した。  精神不安定になっていたのは、江戸の堀部安兵衛一派も同様であった。山科会議では少数派になったものの、このグループは決して初志を捨てたわけではなかった。三月十四日の亡君一周忌の法要は、江戸泉岳寺と赤穂花岳寺の二箇所で執り行われた。法事というイヴェントであり、特に事件史上の何かが起きるということはなかった。むしろ、江戸と上方とがほとんど音信不通になったことが重要であり、この間、堀部グループはまた新たな画策を開始していたのである。  武断派堀部安兵衛に輪をかけて、さらに急速に過激化したのがこの年五十五歳になっていた原惣右衛門であった。江戸グループだけで独断専行しようというのである。四月二日付の安兵衛宛ての手簡は、「内蔵助殿初め、そのほかの上方者共大勢、これを除き候ときは、木挽町お咎めはこれあるまじく、障り申すまじく存じ候」という提案である。われわれ一存で勝手に実行してしまえば、浅野大学に迷惑がかかることはないとする論理である。  堀部安兵衛は六月十二日に、原惣右衛門・潮田又之丞・中村勘助・大高源五・武林唯七《たけばやしただしち》ら五人の中核メンバーに同文かつ宛先連名の書信を送っている。大意はこうである。(一)吉良上野介への幕府からのこれ以上の処分はもう期待できない。一方、広島本家などの働きかけもあるようだから、浅野大学の復権は、|最良の場合《ヽヽヽヽヽ》、三万石ぐらいの再下付、苅屋(赤穂藩中心地)の回復になるだろう。(二)それで本望という人々もいるだろうが、われらはそうではない。大石殿の底意は、まず浅野の家筋を立て、「其後《ヽヽ》是トモ非トモ」亡君の復仇をすることにあると聞かされている。だからこそわれらは待機に同意したのである。(三)かねては討入りの同志は二十人いなければ本意を遂げられないと考えていたが、その後再考したところ、必死と思い定めたメンバーが十人そろえば大丈夫やれる。(四)七月になっても何事もなかったら江戸の同志だけで決行する。来春になったら、また何と言いくるめられるかわかったものではない。  ところが、その当の七月、だれひとりとして予想していなかった事態が生じた。その結果、堀部安兵衛らの策謀もかすんでしまった。安兵衛の大石宛ての返書の六月十五日が、『堀部武庸筆記』の最終日付である。つまり、この史料はここで打ち留めになり、それ以後の記録はない。局面は一変したのである。  ◆円山会議[#「円山会議」は太字]  元禄十五年(一七〇二)七月十八日、浅野大学は、老中阿部豊後守正武に呼び出され、閉門赦免を申し渡された。しかし、その赦免は播州赤穂家復興などという甘いものではなかった。大学は、妻子家来共々、広島藩浅野本家に引き取られることになった。『大垣藩戸田氏播州赤穂一巻覚書』は、たいへんドライにその所遇を記している。「大学様安芸広島え|御浪人にて《ヽヽヽヽヽ》御越しの事」というのである。浅野大学のことはもうこれから話題にする予定はないから、ここでその身の上の行く末を一言しておこう。「忠臣蔵」事件の決着からほぼ七年半後の宝永七年(一七一〇)九月十六日、幕府は浅野大学長広に五百石の禄を与え、旗本寄合衆に列した。せいぜいその程度の人物だったのである。  ともあれ、大石内蔵助の努力はすべて水泡に帰した。広島本家をはじめ浅野家の親類筋、老中に取りなすと口約束した幕府目付衆、そのほか藁にもすがる思いで頼みにした諸人脈——誰ひとりとして役に立ってはくれなかったのである。これで完全に、大石には選択肢がなくなった。同志たちに公約した「武士の一言」もあった。大石はもう引くに引けなくなったのである。  筆者が、大石内蔵助は当初から吉良邸討入りを計画し、不純分子をたくみな智謀で脱落させていったとする史観に同意しないことは最初に述べたとおりである。このとき大石は、いってみれば人事万端を尽して、自己の天命を受け入れたのである。大石にはちらりと一瞬でも、このゲームから降りようという考えが頭を掠めたことはなかったのだろうか。  浅野大学の処置が決まり、大石内蔵助が覚悟を定めて上方を発足するときまでには、夏には「一味同心の者都合百二十人余り」もいた連盟者は、大石の「手を離れ申し候もの六十余人これ有り候」と『江赤見聞記』巻四は伝えている。いっきょに半減したのである。もう一度播州赤穂藩に仕官できるという「担保」が失われたからであり、それを理由にしてこの連中を責めることはできない。大石内蔵助はそういうことができる立場にはなかった。堀部ら江戸武断派(大坂の原惣右衛門らもそれに加わる)の心情は、亡君|個人《ヽヽ》に対するローヤリティである。堀部らはそれを「一分《いちぶん》」と表現した。大石の「一分」はまた違っている。播州赤穂藩に対するローヤリティであり、そのため大石はいったん改易された赤穂藩浅野家の存続の責任を負わなければならなかった。「忠義」などという言葉を使うから話はややこしくなる。これは武士としての信義《ヽヽ》の問題である。その信義をつらぬいたのはもちろん大石内蔵助の度量の大きさである。同時に反面また、時代のエトス(倫理そして習俗)がいかに強く|存在拘束力として《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》作用していたかをも見落してはならない。信義を捨てたら、以後武士として生きることはできない。人間、どうしても決断を下さなければならない場合とタイミングがある。大石内蔵助は、それを誤たなかった。  浅野大学が広島に引き取られた七月二十八日、京都では「円山《まるやま》会議」が開催された。瑤泉院(浅野内匠頭未亡人)からの預り金の出納を明細に記した「大石良雄金銀請払帳」という文書が残っている。吉良邸討入りの前の十一月に、大石が瑤泉院の用人落合与左衛門に送った会計決算報告の勘定帳である。この際ついでに一言しておくが、それに付された十一月二十九日の大石書簡によると、大石が落合に送ったのは勘定帳であって現金ではない。大学再興資金はもう無用になったので、「一儀の用事」(討入り準備の出資)に繰り込んだことに同意されたしという文面である。上方と江戸を往復する旅費、貧窮の同志への手当金、武器調達費などの使途明細はきわめて興味深いが、それはさておき、いま問題なのはその『金銀請払帳』に、出費を金一両と計上し、「京|丸《ママ》山ニテ打チ寄リ会談ノ入用、十九人分、三村次郎左衛門仕払ヒ、手形アリ」と記されていることである。要するに、会議出席者は十九名であった。その名前は列挙するに及ぶまい。ただ特記しておくべきことは、第一に、今回は堀部安兵衛が参加していることである。第二には、進藤源四郎と小山源五右衛門が参加していないことである。第二件についての事情は、後で記す。さしあたりは、この円山会議によって、吉良邸討入りの実行計画はいまや明確な合意に達したことを確認しておこう。堀部安兵衛は円山会議での「一決」の後、八月二日に出京し、同月十日には江戸に帰着して同志たちの取りまとめにかかった。  『江赤見聞記』巻四は、この前後のこととして、「浪人ども随分隠密には仕《し》候えども、大勢の事ゆえ、京都・伏見|辺《あた》り騒ぎ、払物《はらいもの》(家具など売却)等つかまつり候由、風説つかまつり候」と記している。にわかに動きが目立つようになったのである。吉良家の謀報網もそれを探知した。上方の大名家から、わざわざお為ごかしに吉良家に通報することもあったのである。江戸の吉良邸では、当然、用心がきびしくなった。大石としては、しばらくは身をひそめているほかはなかった。  この間、赤穂家臣団の方も無傷では事は済まなかった。同盟者の間に、挫折、窮死、脱落、変節する面々が出て来るのもやむをえない仕儀であった。いくつか典型的なケースを取り上げてみよう。この一冊は、「義士」銘々伝にわたらないのと同様に、「不義士」銘々伝にもわたらない。もともと筆者は、「義士」と「不義士」の間にくっきりした境界線は引けないという考え方に立っている。むしろ、世にいわゆる「不義士」はいかなる事情でそうならざるをえなかったかを思いみなければならないのである。  まず萱野三平の悲劇。赤穂退散のあと親の七左衛門が浪人して住んでいた摂津国の在所で暮していたが、まったくの好意から、幕府旗本大島伊勢守への仕官を勧められた。三平は極力辞退したが、七左衛門はもう老耄していたと見えて頑固一途であった。何が何でも主取りをせよといって聞かない。進退に窮した三平は、ついに切腹して果てた。元禄十五年(一七〇二)正月十四日のことであった。その後円山会議までの期間に、何人もが病死した。大坂新地の遊女と心中した若い侍もいた。いつまでも宙ぶらりんの状態では、気力が続かなかったのである。  円山会議の頃、今度は指導的メンバーの間に動揺が始まった。進藤源四郎の伯父進藤八郎右衛門は、広島藩に仕えていたが、このたび浅野大学の引取りの船奉行を命じられ、その折に進藤源四郎に面談していろいろ詰問した。何か企んでいるなと図星を差されて、源四郎はとうとう計画のあらましを打ち明けてしまった。八郎右衛門の言い草は、おおかた予想されたとおりである。気持はわかる。しかし時節はまだ到来していない。浅野安芸守様の御意向も、「天下の騒動にも相なるまじきものにてもこれ無く、とかくに存じ留《とどま》り候へかし」と案じておられる、と圧力を掛けてきたのである。広島藩浅野本家は、こうして最後の最後まで、赤穂浪士団の足を引っ張った。以上が、進藤源四郎が円山会議に姿を見せなかった理由である(以上『江赤見聞記』巻四)。  この『江赤見聞記』の面白さは、それが史料としての信頼度にもつながるのだが、決して「義士」一辺倒論ではないことである。変節者、脱落者にもそれなりに公正な見方をしている。大石が上方を発足する前後、脱落者は六十余人も出たが、同史料は、それは全部が全部「臆病」だからではなかったといっている。中には「万一内蔵助仕損じ申すべく候。左候へば二度目と存じ候なり」と言い立てた人々もいた。内蔵助の遊廓での「不行跡」も理由の一つとされた。また、それを「武運に尽きたるか勇気たるみ、臆心出来つかまつり候」ことの口実にした面々もいた。進藤源四郎、そして奥野将監、小山源五右衛門、岡本次郎左衛門らがそうであった。この面々の脱盟口上は「存じ寄り御座候」、「存念相違の儀御座候」とだいたい規格が決まっていた(『赤穂義士史料』)。  もう一つ興味深いのは、話題としてはワンテンポ早いのだが、江戸に出て来てから脱落者がまた一かたまり発生しているという事実である。『江赤見聞記』巻四は、その理由として、「上方にては必死と極め、江戸迄一所に参り候者の内も、親子兄弟立ち別れ、|臆心も出来《ヽヽヽヽヽ》、霜月(十一月)中に上方へ逃げ帰り候もの二、三人もこれ有り候」と記している。書置きも残されていて、それらは後でまた検討するが、ここにはありありと赤穂侍のイナカモノ性の弱点が現われているといえよう。地元しか知らなかった国侍が、いきなり人口八十万の大都会に放り込まれたのである。生き馬の眼を抜く超・都市空間のエネルギーに圧倒されて、ホーム・シックになったとしても不思議はなかった。宏壮な大名屋敷、武家屋敷が立ち並ぶ偉容に威圧されて、こんなところで闘って勝てるのかという臆心が生じたとしても無理からぬ話であった。事実、戦線離脱者は討入りの寸前まで散発的に続く。そしてその結果、四十七人の同志だけが最後まで踏みとどまったのである。  ◆江戸潜入[#「江戸潜入」は太字]  この年の八月から討入りまでの基礎史料は、『寺坂|信行《のぶゆき》自記』である。寺坂|吉右衛門《きちえもん》信行は、吉田忠左衛門組の足軽であった。士分以下の身分である。しかし、吉田忠左衛門の片腕になって甲斐甲斐しく働いた。ところが討入りの翌朝、現場から突然消え失せていて、その真相をめぐって諸説があり、いまだに論争がある。事件当時の文書はいずれも「四十六士」と記していて、それは寺坂吉右衛門を討入りの一党に加えていないからである。当事者たちも寺坂逃亡説を流している。そうしたいわば「寺坂問題」についてはしかるべき箇所で書く。そのことは別として、寺坂は吉田忠左衛門の祐筆のごとき任務を果していた。文章も要領を得ていて無駄がない。『寺坂信行自記』は、吉田忠左衛門の側から一党の動きを伝えた記録として信用できる。  七月十七日、吉田は江戸の麹町に作州浪人というふれこみで居を定め、上方衆と江戸衆との連絡の窓口になった。八月十二日、上方から潮田又之丞が東下し、隅田川に遊山船を二艘用意して「江戸表同志衆、申し合せ同道致し候」と寺坂は記録している。討入りの基本プランを打ち合わせる合議であった。この船上会談は吉田が準備をととのえ、心底が疑わしい人士はメンバーに加えなかった。意見が一致したのを見届けて、潮田は八月十七日にまた上方に上る。そしてそれ以後、上方勢は幾波にも分れて、続々と下府してくる。  その人名や日付は省略するが、大石|主税《ちから》のことは一言しておく。当年とって十五歳。いうまでもなく大石内蔵助の嫡男であり、一党中最年少であった。この少年をめぐって、『松山藩赤穂聞書』にこんな記録が書写されているのである。松山藩久松家の当主は松平隠岐守であり、吉良邸討入りの翌日、四十六士を分散して預かった四大名家の一つである。大石主税は堀部安兵衛ら十名のうちの一人として久松家に預けられた。その記録は『波賀清太夫覚書』(『赤穂義人纂書』所収)として世に伝わっている。この『覚書』は後で是非ともまた言及するつもりだが、いま取り上げている文書は、それとは別物であるか、前者から洩れているかのどちらかであるが、ともかく『吉良浅野一条聞書』と銘打たれた調書である。その一節にこういう文面があるのが眼に留まる。 [#ここから1字下げ]  上方に罷り在り候一味の者共、妻子片付け、八月末より閏八月・九月・十月までに五人三人|充《ずつ》目立ち申さざる様に江戸え罷り下り候。尤も|内蔵助方より江戸一味の方え人質のため《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、嫡子主税を先達《さきだ》つて差し遣し申し候。 (上方在住の一味の面々は、妻子の身の振り方をつけ、八月から十月までの間に、目立たぬように人数を分散して江戸へ下って来ました。もっとも|内蔵助方からは江戸一味への人質として《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、嫡子主税を先行させて江戸に差し向けております。) [#ここで字下げ終わり]  なるほど、そういう考え方をしていたのか。この段にいたってもなお、大石内蔵助は全幅的に信用されていなかった。あるいは、そうしてまでも自己の不退転の覚悟を示したかった。読み取るべきは一党の間にまだ相互不信が存在していたことが主要な動機だったということではない。厳粛な決意表明の証しである。一党の中からは、この後も家族愛が足かせになって脱落する者が何人も出る。指揮官は率先躬行しなければならないのである。  事のついでに、やはり一党のうち九名を預かった岡崎藩主水野監物邸に伝わる『水野家古文書』(『赤穂義人纂書』所収)に触れておこう。題目には、「十二月十七日夜神崎与五郎物語」とある。この日付から見て、「物語」とは言い条、これは雑談ではなく正式聴問の記録であると判定できる。いくつか興味ある事実が語られているのである。 [#ここから1字下げ]  堀部親子、江戸勝手にて居り申し候ひき。家来一人見届け申すべしとて、門を乗り申し候まで付き参り候。そのほか前原伊助・杉野十平次など、かれこれ七人程江戸ものこれ有り、ほかは皆、在所より先頃下り申し候。 (堀部弥兵衛・安兵衛親子は、ずっと江戸在住で、土地の事情に通じておりました。吉良家の家来を一人でも見覚えておこうと、吉良邸の門内に入るまで付けまわしたこともあります。他には前原伊助や杉野十平次など、ざっと七人ぐらいは江戸者でございます。それ以外はみな赤穂の在所から、最近下って来た者ばかりでした。) [#ここで字下げ終わり]  在府メンバー、つまり「江戸勝手」の者は一党中わずか七人であった。大石内蔵助自身も「江戸不案内」だったのである。それが一斉に江戸に潜入した。一部に心理的動揺が生じたのは先述のとおりであるが、中心メンバーはたくみに大江戸の社会に溶け込んでいった。大江戸は良くも悪しくも広かった。その片隅に不穏な|やから《ヽヽヽ》が潜り込んでも、ちっとも目立たないような人口構成ができあがっていたのである。  さて、また史料は『寺坂信行自記』に戻る。上方勢の東下はなお続く。  江戸に潜入した一党は、どのような場所に潜伏したのであろうか。『寺坂信行自記』によれば、総計十三箇所に分散している。まず石《こく》町三丁目の裏店《うらだな》。日本橋の公事宿《くじやど》であった。公事宿とは、さまざまな訴訟事件で江戸に出て来ている人間が宿泊する旅館である。大石主税が垣見左内の変名で、上方から訴訟のため出て来た若者であると称し、しばらく様子を見た上で、内蔵助当人が後見の伯父という触れこみで移ってきた。公事宿は当時たいへん繁昌していた。多少の人間の出入りは、だれも怪しまなかったのである。  あと逐一には記さない。こうしたアジトが巧妙に、麹町、神田八丁堀、芝、深川などに配置された。芝源助町では、かつて堀部安兵衛に町人の身なりを嘲笑された磯貝十郎左衛門が酒屋をいとなんでいた。そして大胆不敵にも、大高源五、堀部安兵衛、杉野十平次などは、本所に居を構えた。安兵衛はよほど町人姿になるのがいやだったらしく、剣術指南の看板を出していた。当時の本所には、そういう手合いがごろごろしていて別に不審とは思われなかったのだ。元禄年間の本所の、回向院の門前町と旗本屋敷と町屋と田畑が入り組んだ、雑居性・低湿地性・場末性・新開地性をここでもう一度強調しておく。「本所は場末にて辻番しまりこれ無き所、さまざまの諸浪人衆多く入り込みたる所の由に候」(閏八月七日付書状)と吉田忠左衛門は書いている。この土地柄は、大名諸侯や高級旗本の屋敷がつらなる整然たる武家地とはまったく違っていたのである。本所二ツ目相生町三丁目には、前原伊助が米屋《ヽヽ》五兵衛、神崎与五郎が小豆屋《ヽヽヽ》善兵衛にそれぞれなりすまして住みついた。吉良邸の裏門とは眼と鼻の距離であった。商人体の二人は、如才なく揉み手などしながら、ぬかりなく吉良邸の動きを見張っていたのである。  十一月からは若い者が毎夜四人一組で、偵察活動を開始した。重点は、本所の吉良邸および桜田の上杉邸とを結ぶ線を念頭に置きつつ両邸近辺の二筋に分れた。それとは別の一手が吉良・上杉両邸への人々の出入りを観察した。いちばん敵地近くに居を構えたのが前原伊助・神崎与五郎であったが、しかし吉良邸は「如何様《いかよう》の儀にても他の者かたく入れ申さず」、何者の立入りも許可しないというきびしい警固ぶりだったので、どうしても邸内の模様までは探知できなかった。  じつをいうと大石の一党は、吉良家拝領以前の屋敷地の図面を内々に入手していた。ところがそれは「上り屋敷」であり、こういう事情があろうとなかろうと改築するしかない空き屋だったから、上野介がそれをどのように建て替えたかは容易にはつかめなかったのである。やむなく、一党は想定できるかぎりの絵図面を作成した。また、外部からでもわかる吉良邸の縦・横の間《けん》数と方角、同邸から回向院までの十間(十八メートル強)と寺内の間尺、そこから両国橋・広小路まで何町あるかを歩測してたしかめた。子想される上杉家の加勢を考慮しての地形測定であった。  詳細は、後段の吉良邸討入りの場面でとくと述べるが、ともかく一党は、そのかなり広大な吉良邸内部の区割りの情報入手に苦心したのである。  諸情報が完璧にととのわないからといって、計画をためらうわけにはゆかない。十二月二日、大石は深川八幡の門前にある大茶屋に同志を全員召集し、いよいよ決行の時期が迫ったと告げた。茶屋の亭主には、頼母子講《たのもしこう》の寄り合いであるという口実で充分まかりとおった。有名な「起請文前書の事」という申し合わせも、このいわば「深川会議」で通達された。長文であるから引用は避ける。要点は、首尾よく吉良上野介の首級《しるし》を挙げたなら、極力いかなる抵抗をも排し、これを亡君の墓所である泉岳寺に持参することを最終目標とすべし、ということであった。成功した場合、退き口は裏門からとし、集結場所は回向院とする。もし寺院から拒絶されたら、両国橋東詰の広場に集合する。またもし「彼《かの》屋敷」(上杉家)から追手が懸ったら、|全員が《ヽヽヽ》その場に踏みとどまってたたかう。  しかし、と大石はさらに声を強めていった。以上は首尾よく上野介を討ち留められたら、のことである。最初から退き口のことなど考えるな。「勿論《もちろん》の議ながら、討入り候覚悟、惣勢必死の心底、決定致し候」——全員が必死で働かなければ、退き口も集結場所も泉岳寺もないのだ、と大石は声を励《はげ》ました。  この最終段階でも大石は、またもや脱落者問題に頭を悩ましていた。十月から十一月にかけて中田理平次・中村清右衛門・小山田庄左衛門・田中貞四郎・鈴田重八が欠落《かけおち》。一例として、鈴田重八の言い訳を参照してみよう。鈴田は老母を兵庫に残してきたが、その母から生計が成り立たないといってきた。「この母を捨て申さず候えば、私の一分を捨て申し候よりほかには御座無く候に付き、色々了簡つかまつり候えども、母儀もただいま様子承り候ては黙止し難く存じ候」、母の老後が見捨てられないというのがその理由であった。  たまたま十二月五日、一党に最後まで残った茅野和助《かやのわすけ》の父親宛ての書状がある。いわく、「此度《このたび》主人ノ敵ヲ討チ申ス事ノ、大石内蔵助ヲ初メ、人数五十人程ニ御座候。此場ヲノガレ候テハ、一家ノ面目、殊《こと》ニ武士ヲ立テ候エバ、武次郎又ハ伜《せがれ》猪之吉ナドニモアシク、トカク武ヲハヅレ申ス事ニ御座候」と。——これは良い意味で、最後まで踏みとどまった人間の平均的心情である。茅野和助は「此場ヲノガレ」ることはできない。そうしたら武士の一族としての弟や息子の将来はどうなるのか。これは家族愛である。鈴田重八は老母を見捨てることができなかった。これも家族愛である。その差は紙一重というほかはない。あえてカタイ言葉を使わせていただくなら、「不義士」にもそれだけの実存的選択《ヽヽヽヽヽ》があったというべきである。  十二月十二日には、瀬尾孫左衛門と矢野伊助が平間村から逃亡した。討入りの前々日である。しかし、大石にもっとこたえたのは、十二月十一日の毛利小平太の脱落であった。読者はこの十二月十一日《ヽヽヽヽヽヽ》という日付をぜひご記憶ねがいたい。『寺坂信行自記』によれば、小平太はさる大名の身なりのよい下男になりすまし、吉良邸内に入り込んで、警備施設が世評ほどには強固ではないという報告をもたらしたほど才覚のある人物であった。それが突然、きちんとした口上を記して脱盟したのである。打撃であった。理由はただ「拠《よんどころ》無き存じ寄り」と書いてあるだけである。そして、これまで知りえた事柄については、一切口外しないと誓言している。事実、信じられないことかもしれないが、赤穂一党の脱落者には|ひとりとして《ヽヽヽヽヽヽ》幕府に通報した人間はいなかった。  そうしたさまざまな不安材料——情報不足と人心動揺——を抱え込みながら、大石は決行に向かって進んでいた。延引すればするほど、脱落者は増すだろう。「若き者共、勝手(生計)の続きかね候者共など、早く討ちたがり申し候」(『神崎与五郎物語』)という現実があった。ここから一党すべての動向は、吉良上野介が|いつ確実に在宅するか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の情報獲得にしぼられてゆく。討入りは一回かぎりの勝負である。二度目はないのである。成否は一にかかって、吉良上野介の在宅の日をたしかめることにあった。  情報戦争はいよいよ緊迫する。大石はいくつものルートを使って、たがいに別々の人脈を通じて、探索の綱をせばめていた。一人は大高源五である。大高源五は俳人だった。「蕉門の十哲」のひとりとして江戸派を興した宝井|其角《きかく》の一門にもつらなり、子葉という俳号を得ていた。俳諧と茶道は縁が深い。源五は俳諧も茶もたしなむ風流人という触れこみで、京都の富商呉服屋新兵衛になりすまし、本所二つ目に居を構える茶道の宗匠山田|宗※[#「彳+扁」、unicode5fa7]《そうへん》に入門した。宗※[#「彳+扁」、unicode5fa7]は茶会のたびごとに吉良邸に出入りしていた。  『忠誠後鑑録』によれば、討入りの後、大高源五はこの宗※[#「彳+扁」、unicode5fa7]にお詫びの気持をこめた遺書を書き残している。「欺きて師とし弟子と成りたる事恐れ入り候。併しながら義士忠心の成す所なれば、御免を蒙るべし」という文面である。たしかに、源五には多少のうしろめたさはあったであろう。宗※[#「彳+扁」、unicode5fa7]も具合が悪かったと思う。得てして|このての《ヽヽヽヽ》話には後日の創作が多い。だが筆者はこの一件を信用する。というのは、大高源五が預けられたのは松平隠岐守邸であり、この屋敷ではかなり文筆の規制がゆるやかだったからである。その点は後述。源五はいったんは宗※[#「彳+扁」、unicode5fa7]から吉良邸での茶会が十二月六日と聞き出した。大石一党はすわと色めきたった。ところがそれは将軍家の行事日程の都合で延期になり、一同を落胆させたが、今度はやはり宗※[#「彳+扁」、unicode5fa7]から十二月十四日は年忘れの茶会がまちがいなく開催されるという予定が聞き出せた。大高源五は、ただちに大石に通報した。  もう一つのルートは、以前から「とかくと内証働き」(『寺坂信行自記』)、つまり隠密側面支援をしてくれていた大石|無人《ぶじん》・三平父子からの情報であった。毛利小平太が逐電した十二月十一日、堀部弥兵衛は大石三平宛てに、六日の茶会が延期された後、次の期日はいつか、明朝かもしれないし今晩かもしれないと一同は焦っていると記した手紙を送っている。聞き届け次第、「御むつかしきながら早々御知らせ下さるべく候」と文面は切迫している。十二月十三日には富森《とみのもり》助右衛門《すけえもん》が大石無人宛てに、「彼(吉良邸)ニ弥《いよいよ》明日客これ有り候段、承知致し候えども、心もとなく候間、斎《いつき》を以て申し来たり候つもりに付き、今日昼過ぎ、垣見五郎兵衛(大石内蔵助の変名)宿え内々|御出《おいで》下されたく候」と急報している。明日吉良邸に客人云々は大高源五情報であろう。大石としては是非ともそのウラが取りたかったのである。斎という人名がいきなり出て来るが、姓を羽倉《はぐら》という神道家。なんと後に「国学の四大人」の筆頭に数えられる荷田春満《かだのあずままろ》(!)の若き日である。斎にもおそらくは京都の筋で、吉良邸の茶会について予定を知りうるコネがあった。自身が、大石のアジト石町には出向く必要はなかった。しかし十二月十三日、大石三平宛てに急便を送っている。文面はたくみにカモフラージュしてあるが、その「尚々書」には、「尚々、彼方の儀は十四日の様にちらと承り候」と明確なメッセージが記されていた。  二つの情報画面はぴたりと重なり合った。決行は翌十二月十四日と即断が下った。連絡は江戸中の一党のアジトに行きわたった。こうして大江戸をゆるがす十二月十四日を迎える。またしても長い一日になることであろう。 [#改ページ] [#小見出し]元禄十五年十二月十四日  元禄十五年(一七〇二)の歳末はとにかく異様に寒かった。吉良邸討入りの情報は、その日のうちに江戸から全国各地に伝わった。幕府や関係大名家のみならず、民間市井の書信もいくつか記録に残されている。それらには寒気のことが、たんなる時候の挨拶を越えて言及されているのである。  たとえば『浅田家文書』(東大経済学部所蔵)には、「時分柄|殊の外寒気《ヽヽヽヽヽ》に御座候」とあり、その年の諸物価を、小判一両につき銭三貫九百二十五文、切り賃(両替手数料、金一両につき銀四分)、銀五十六匁、新米六斗八升、古米六斗一、二升、大豆一石六升、と報じている。三貨(金・銀・銅)相場は、だいたい元禄通貨で安定していると見てよい。しかし、米価はかなり高い。同文書は、それを東北地方の不作の影響としている。連動して諸商品の物価も上がった。「江戸諸色、売物等までも高直《たかね》御座候て、手詰り申し候」と、この文書は伝える。本来これは経済情報のレポートである。討入り事件はその間に飛び込んできた椿事にすぎない。しかし、冷害は物価高というかたちで江戸に潜入していた赤穂浪士の生活をも経済的に圧迫していた。このままずるずると計画を延引していたら、食いつめ者になるしかない。|俺たちに明日はない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、という精神状況に追い込む一因だったのだ。  またたとえば、『桑名藩所伝覚書』に収録されている書簡にも、「甚だ寒に御座候」と記している。これは政治情報の文書であり、同藩の「横目」(探索役)の報告であるが、上杉家から吉良邸へ送り込んでいた付人《つけびと》の実数は、いくら本所近辺に手をまわしても不明だといっている。風聞によれば、武士四十人ぐらい、足軽|仲間《ちゆうげん》百八十人ぐらいだそうだと想定している。過大評価であった。このことは後で幕府検使の調査で明らかになるだろう。が、いまここでの話題は、足軽仲間はすべて江戸での現地雇用であり、物価高にあわせて給金を払わねばならず、それにだいいち、危急の場合、身体を張ってまで吉良家につくす義務も必要もなかったということである。さきの『浅田家文書』の筆者は、津軽藩に関係のある人物と見えて、扶持米が支給できなくなったとこぼしている。出羽米沢藩上杉家もそうした冷害の例外ではなかったはずである。  元禄十五年十二月十四日の昼間から、江戸各地に分散していた赤穂浪士たちは、本所林町の堀部安兵衛・杉野十平次のアジトに集結を開始した。この四十七人には、今夜あるいは今暁しかない。もう明日《ヽヽ》のことは心配しなくてもよかったのである。  ◆吉良邸討入り[#「吉良邸討入り」は太字]  さて、いよいよあらゆる『忠臣蔵』記述のハイライト吉良邸討入りにかかるわけであるが、これには一工夫しなければならない。血闘は、わずか一刻(二時間)ぐらいで決した。赤穂方のほとんどパーフェクト・ゲーム的な勝利は、天にも地にも奇襲効果であった。だが、その戦闘情景の全体を眺める視点はどこにも存在していないのである。  戦闘当事者には、任じられた部署しか見えないという原則がある。局地戦にしか視界はない。各自は、断片的にしか——自分の記憶はない。史料並置的にそれらを羅列していたのでは迫力がなくなる。ましてや、原文引用などをまじえていたら叙述のテンポが遅くなる。そこで筆者は一計を案じた。全体の経過をまずまとめて再現する。吉良邸突入から引揚げまでを一息に語る。そしてそれから、どうしても逸しがたい局地戦の情景を付加する。そのことは、この史上有数の平和時における集団戦闘の記録にとって不可欠なのだ。ヴァイオレンスも、悲劇性も、そしてユーモラスな場面もこもごもにまじりあって、このわずか数時間のドラマをゆたかにするだろう。  根本構図はこうである。まず第一に、大目付仙石伯耆守邸での大石内蔵助・吉田忠左衛門の尋問調書。これが全体輪郭を示す。ただしこの供述は、二人が表門組・裏門組(後述)のそれぞれ指揮官であったからであり、広大な吉良邸内での局地戦の細部までは、十二月十五日、泉岳寺・仙石邸で四十六人——寺坂吉衛門問題は後述——の同志から事情報告を受けていたとは思えない。第二には、四組に分れて四大名家に預けられた赤穂浪士たちの書状ならびに談話。第三に、決定的にタイミングを逸して吉良邸の検分に出向いた米沢上杉家の現場報告。第四に、闘争現場の検使に趣いた幕府目付の公式記録。それらをできるだけクールに復原することから取りかかってみよう。  赤穂一党は、三々五々、夕方までには全員本所入りしていた。小野寺十内は「九つ頃」(午前零時頃)まで堀部弥兵衛方で酒を呑み物を食っていたと記している。他の面々も似たようなものだったろう。英気と体力を養っていたのである。それから全員が本所林町の杉野十平次・堀部安兵衛方に集結。申し合わせた寅《とら》の上刻(七つ時——午前四時)、一党は出立して目標の吉良邸に向かった。 [#ここから1字下げ]  其の間の道は十二、三丁(約一・三キロ)もある距離だった。昨日降った雪の上に、暁の霜が凍って、さくさくと足許がたいへんよかった。世間をはばかって、提灯《ちようちん》も松明《たいまつ》もともさなかったが、有明の月(なにしろ陰暦の十四日だから満月に近かったのだ——注)冴えて、道をまちがえるわけがなく、敵の屋敷の辻(本所松坂町二丁目——注)まで押し寄せた。ここから東西へ二十三人ずつ二手にわかれ、めいめいが取り掛って、屋根から乗り込んだことであった。 [#ここで字下げ終わり]  さて、こうして乗り込んだまではよいが、その吉良邸の広さはどのくらいあったのだろうか。これには諸説あるが、三田村鳶魚の『元禄快挙別録』は、幕末の国学者・考証家である山崎|美成《よしなり》の『赤穂義士一夕話』を引いて、吉良邸は「表七十四間(約百三十三メートル)、西の方《かた》三十三間(約六十メートル)、東の方三十四間一尺(約六十二メートル)、坪数二千五百五十九坪(約八千三百十三平方メートル)」の面積であったとしている。「表七十四間」とは吉良邸の南側の道路に面した一辺の長さであろう。東側と西側で間数が違うのは、江戸時代の切絵図では各屋敷をふつう長方形とか短冊形とかに示しているけれども、実際には若干いびつになっていたからである。  吉良邸は、討入り一件の始末がついた後、武家が入るのをいやがり、そっくり町人地になった。切絵図の上では、安永四年(一七七五)の『本所深川之図』では三等分されて「マチヤ(町屋)」とあり、嘉永五年(一八五二)の尾張屋板『本所絵図』では、「松坂町一丁目・二丁目」と地名表記されている。幸い明治十七年(一八八四)の参謀本部の地図にはその区画がほぼそっくり残っている。その縮尺は確かである。計測ではだいたい東西百三十メートル(約七十二間)、南北六十メートル(約三十三間)という見当になる。『赤穂義士一夕話』の数字とほぼ一致するのである。吉良邸表門のある東側は旗本牧野一学の屋敷と向きあい、北側は境いの塀一つで土屋主税・本田孫太郎邸と隣接していた。南側は町屋筋。西側には裏門があって、道路をへだてて回向院。そのさきはもう隅田川に架かった両国橋である。東・西・南の三面のあらかたは、二階作りの長屋であった。吉良邸の間尺は、外偵からかなりの見当がつく。だがそのことと、邸内の間取りと敷地内の防御施設とは別問題である。とはいえ一党は、後述する証言にあるとおり、だいたいの予想はつけてあったのである。 [#挿絵4(fig5.jpg)]  現在に伝わっている吉良邸絵図には、(一)『浅吉一乱記』所収の簡略な図面(『赤穂義士纂書』第一)、(二)『赤穂義士史料』中巻冒頭所収のかなり詳細な絵図(東京大学図書館蔵)、(三)赤穂市史編纂室版『忠臣蔵』資料のうちの一つ「吉良本所屋敷絵図」である。本書で示した図は、右の三種類中その(二)にもとづいている。この図面からいくつかのことがわかる。  第一に、だれの眼にもつくことは、吉良邸の三方に建てめぐらされた長屋の防壁だろう。長屋といっても、落語でおなじみの町長屋ではない。ふつう大名屋敷では、それは在府家臣団の居住区であり、吉良邸ではそこに上杉家の付人を逗留させていた。加うるに、その建物自体が外部からの侵入に対するりっぱな防御壁であった。北面はさすがに長屋を建てていない。土屋主税・本多孫太郎の両旗本邸が塀続きで隣接しているので、それには遠慮があったのだろう。しかもだいいち、赤穂浪士がそこから攻め込んでくる気づかいは万が一にもありえなかった。  第二に気がつくのは、吉良邸の庭をいくつにも複雑に仕切っている新塀である。この図面では塀のラインも間取りと同じように黒線でしか示していないから、あたかも庭も邸の母屋の建坪に入っているかのように見えてしまう。だが、実際にはそうではない。庭は庭である。そして、それを区画している塀は、侵入者を阻止し、かつ分断するようにたくみに設計されていた。結果的には役に立たなかったが。  それらの情報をどの程度内偵していたかはわからない。十二月十四日の討入りは、一発勝負でありもはや変更はきかない。当日寅の上刻(七つ時——午前四時)、一党は吉良邸外に集結し、かねての手はずどおり二手に分れた。この手配りはどうしても人名を明記しておかなければならない。   表門組[#「表門組」はゴシック体]  大石《おおいし》内蔵助《くらのすけ》   四十四歳  槍  原《はら》惣右衛門《そうえもん》   五十五歳  槍  間瀬久太夫《ませきゆうだゆう》   六十二歳  半弓  堀部弥兵衛《ほりべやへえ》   七十六歳  槍  村松喜兵衛《むらまつきへえ》   六十一歳  槍  岡野《おかの》金右衛門《きんえもん》  二十三歳  槍  横川勘平《よこがわかんぺい》    三十六歳  槍  貝賀弥左衛門《かいがやざえもん》  五十三歳  片岡《かたおか》源五右衛門《げんごえもん》 三十六歳  長刀  富森《とみのもり》助右衛門《すけえもん》  三十三歳  槍  武林唯七《たけばやしただしち》    三十二歳  早水藤左衛門《はやみとうざえもん》  三十九歳  弓  神崎与五郎《かんざきよごろう》   三十七歳  弓  矢頭《やとう》右衛門七《えもしち》   十七歳  槍  奥田孫太夫《おくだまごだゆう》   五十六歳  長刀  矢田《やだ》五郎右衛門《ごろうえもん》 二十八歳  槍  勝田新左衛門《かつだしんざえもん》  二十三歳  槍  大高源五《おおたかげんご》    三十一歳  長刀  近松勘六《ちかまつかんろく》    三十三歳  間十次郎《はざまじゆうじろう》    二十五歳  槍  吉田《よしだ》沢右衛門《さわえもん》  二十八歳  岡嶋《おかじま》八十右衛門《やそえもん》 三十七歳  小野寺《おのでら》幸右衛門《こうえもん》 二十七歳  寺坂《てらさか》吉右衛門《きちえもん》  三十八歳   裏門組[#「裏門組」はゴシック体]  大石《おおいし》主税《ちから》    十五歳   槍  吉田忠左衛門《よしだちゆうざえもん》  六十二歳  槍  小野寺十内《おのでらじゆうない》   六十歳   槍  潮田又之丞《うしおだまたのじよう》   三十四歳  前原伊助《まえばらいすけ》    三十九歳  杉野十平次《すぎのじゆうへいじ》   二十七歳  赤埴源蔵《あかばねげんぞう》    三十四歳  倉橋伝助《くらはしでんすけ》    三十三歳  中村勘助《なかむらかんすけ》    四十四歳  奥田《おくだ》貞右衛門《さだえもん》  二十五歳  長刀  間瀬孫九郎《ませまごくろう》   二十二歳  槍  千馬三郎兵衛《ちばさぶろべえ》  五十歳   半弓  間喜兵衛《はざまきへえ》    六十八歳  槍  木村《きむら》岡右衛門《おかえもん》  四十五歳  槍  不破《ふわ》数右衛門《かずえもん》  三十三歳  槍  磯貝十郎左衛門《いそがいじゆうろうざえもん》 二十四歳  槍  堀部安兵衛《ほりべやすべえ》   三十三歳  長刀  大石瀬左衛門《おおいしせざえもん》  二十六歳  槍  菅谷半之丞《すがやはんのじよう》   四十三歳  村松三太夫《むらまつさんだゆう》   二十六歳  槍  三村次郎左衛門《みむらじろうざえもん》 三十六歳  間新六《はざましんろく》     二十三歳  弓  茅野和助《かやのわすけ》    三十六歳  弓  右の人名リストは、年齢と担当した武器とに重点を置いている。年齢は福本日南の『元禄快挙録』による。日南は一党の年齢構成を「七十歳代が一人、六十歳代が五人、五十歳代と四十歳代とが各四人、三十歳代に至って十八人、二十歳代が十三人、十余歳代が二人である」と要約している。その気持は何となくわかる。一党は全員が選びぬかれ、鍛えぬかれたコマンド隊員であるわけではなかった。老いの一徹、信念は燃え上がっていても、老い武者の悲しさはそれが実戦力になるというものではなかった。二十代、三十代は合計三十一人。たしかに一党中の多数ではあったが、そのすべてが武芸達者であったとはかぎるまい。それでも勝ってしまったのである。  担当武器の記録は、『江赤見聞記』巻四にもとづく。討入りの一党は、弓・半弓といった飛び道具、そして槍・長刀《なぎなた》の長道具をふんだんに用意していたのである。同文書には「槍・長刀の類、内蔵助自筆にて記」とある。これらの武具は前もって杉野十平次・堀部安兵衛の居宅に舟路運び込まれていたと考えられる。深川・本所界隈は、水運の街、というより運河の街であった。そのくらいの荷物の移動が人眼につく気づかいはなかったのである。  一団は全員火消衣裳の身なりをして、月齢十四日の夜の月明に助けられ、霜でざくざくしてかえって安定した道路を歩み、吉良邸前の辻で二手に分れた。表門寄せ手のうち大高源五と間十次郎が、吉良邸の前の町屋にいつも火の用心のために常備している梯子をちゃっかり拝借して——もちろんその所在は確認済みだった——吉良邸表門近くの長屋塀へ掛けてするすると登り、屋根を打ち越えて、両人一番乗りで邸内に飛び降りた。二階家の上からほどの高さである。次いで二番手、三番手が飛び降り、ためらわず門番二、三人を斬り伏せ、あるいは縛り上げ、後陣も続々と梯子で門を乗り越え、表門を内側から討入り勢が堅める態勢になった。合図の鉦《かね》を打って裏門組に知らせ、裏門勢は三村次郎左衛門が掛矢《かけや》をふるって門を打ち破り、その勢いでいっきょに乱入した。表門組のうち、原惣右衛門と神崎与五郎が屋根に凍りついていた残雪に辷《すべ》って落ち、足をくじいた。当座の働きには間に合わせたが、血闘が終結したあとから腫れあがり、ひどく痛んできた。  表・裏両勢の行動は迅速だった。斬込み組は後をかえりみず、母屋の内部に突入した。はじめは口々に火事だ火事だとおめきたて、数百人も押し入ったような騒ぎに見せかけ、表門勢はまず玄関を打ち破り、広間へ踏み込んだ。吉良家の当番の者四、五人が抵抗するのを即座に斬り伏せ、一番最初にしたのは広間に立てかけられていた張弓の弦をことごとく切り払ったことであった。次に槍の間にあった長槍を十四、五本すべて叩き折った(吉良邸絵図参照)。  裏門勢の働きも同様である。裏門の突破口からどっとなだれこみ、まっしぐらに上野介隠居の玄関へ斬り込んだ。門の右手の長屋から出《い》で合った男二人を小野寺十内と間喜兵衛とが槍で突き伏せた。不破数右衛門は裏門の外を堅める役のはずだったが、こらえきれず邸内に入って屋内の戦闘に参加。吉良左兵衛に手を負わせたが逃げるにまかせ、ひたすら上野介ひとりをめざし、相手方の家老がなかなかの手利きだったのをようやく仕留め、一筋に上野介の姿を求めた。  この間、表門勢は個別的な抵抗を各個撃破しながら、奥へ奥へと侵攻していった。捕えておいた番人に|ろうそく《ヽヽヽヽ》を出させ、一間《ひとま》一間を虱《しらみ》つぶしに探索して進んだ。途中で打ち掛ってくる相手は一槍一太刀ずつぐらいを浴びせ、動けなくなった者は意に介さず、上野介の寝所をめざしたのである。大石内蔵助の下知で、討入り勢はもはや公然と「浅野内匠頭家来主の敵討ち」と呼ばわっていた。  ここで見落してはならないのは、右の斬込み組——いわば屋内戦《ヽヽヽ》集団——とはまた別に、屋外戦《ヽヽヽ》要員も編成されていたことである。制圧目標は、邸内の内回り三面に建て並べられた長屋にいた警固の侍たちであった。たとえば岡野金右衛門は十文字槍をよく遣った。邸内の広場で多数を相手に勝負する場合に備えて、張りめぐらされた新塀の間に設けられた小門を守っていたら、案の定、出《い》で合おうとした者がいたのでたちまち突き伏せた。片岡源五右衛門・原惣右衛門・小野寺十内も屋外の任に当っていた。北隣りの土屋主税邸は吉良邸の騒ぎに驚き、家来衆が屋根に登って物見をしている様子なので、三人は塀際に駆け寄り、これは敵討ちでござる、武士は相身互《あいみたが》い、一切お構い下されるな、ときちんと挨拶した。土屋邸は了解のしるしに、塀越しにあまたの釣提灯を掲げて見せた。  長屋は、もともと警固の人数の兵営のはずであった。ところが、ほとんどの人員が長屋の中に閉じこもってしまい、いくら出合えと声をかけても、戸を引き立てたまま出て来なかったのである。出合った者もいたが、瞬時に突き伏せられた。戸口は一小屋——武家長屋は町内の棟割り長屋ではない——あたり数名の赤穂浪士で固められた。少しでも動きがあったら、容赦なく半弓で矢を射込み、槍で突きかかった。これでは出ようにも出られなかったという吉良・上杉側の言い分は、後でとっくりと承わることにしよう。長屋は完全に制圧され、侍たちは戦意喪失の状態におちいっていた。  このように長屋の人数が無力化されつつあった間に、母屋の内部では表・裏両勢が、吉良左兵衛奥座敷と上野介隠居座敷の境い目あたりで合流していた。しかし、寝所はもぬけの殻だった。上野介はどこに消えたのか。こうなるともう表門組も裏門組もない。一同総がかりで家探しが始まった。捜索は三度くりかえされ、部屋部屋を隔てる襖、板戸、障子などはすべて叩き倒され、さしもの吉良邸も空屋敷同然のありさまになった。そればかりか、天井裏から床下まで探ってみたが、無駄であった。一党には、ようやく焦慮の念が生じた。  たとえば『富森助右衛門筆記』の記述を読むと、「寅の上刻」の討入り開始から、上野介寝所のくだりまでは、ほとんど|時間の経過の感覚《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》がない。これは注目してよいことである。おそらく、表門勢と裏門勢がここで合流するまで、半刻(一時間)もかかっているかいなかったかのテンポだったろう。だが、肝心の上野介の所在不明がにわかに重くのしかかった。|残り時間《ヽヽヽヽ》である。特に大石内蔵助の念頭には、上杉家はかならず動くという思いがあった。このままいたずらに時間を空費したら、とても大望は遂げられない。焦りがつのった。その意味では、果敢に抵抗して斬り死した人々は、上野介の所在隠匿のためにけっこう時間を稼いだと評すべきであろう。  けっきょく吉良上野介は居場所を発見され、首級を揚げられるわけであるが、それには多分に老人の知恵があずかっていた。当年六十二歳の吉田忠左衛門は、大石主税を補佐して裏門組にまわっていた。忠左衛門が考えたのは、だいたい隠居所というものは奥座敷の裏の方に建てるものだから、そのあたりをもう一度吟味してみたらどうかというアイデアであった。これは当った。一見|雪隠《せつちん》風の部屋が見落されていて、中から人音が聞えた。諸記録には「炭小屋」としてあるものが多いが、それも当然。これは茶室の近くの茶碗やら囲炉裏《いろり》の炭やらを用意しておく部屋だったと考えられる。片側は土間である。中には三人いた。戸を打ち破ったところ、向こうは必死で皿、茶碗、炭などを投げつけてきた。矢など射込んで迫《せ》りつめたところ、二人はたまらず外へ斬って出た。殊の外の働きだったが、堀部安兵衛と矢田五郎右衛門がなんなく討ち留め、残る一人を間十次郎が槍で突き、なおも脇差を抜いて振り回すのを武林唯七が一刀で斬り倒した。一党はだれも吉良上野介の面体を知らなかった。額の傷痕は血まみれで見分けがつかない。背中の古傷をたしかめて上野介であろうと判定し、間十次郎がその首を落した。また念のために、最前捕えておいた門番足軽に見せて確認させたら、まぎれもなく上野介殿の御首級と保障した。そこで初めて、かねての申し合わせどおり、合図の笛《ちゃるめら》を吹き鳴らして邸内の一党を一箇所に呼び集めた。長屋を封殺していた面々は、われらは上野介を討ち取ってただいま立ち退く、だれか出合う者はいないかと呼ばわったが、長屋はしんと静まりかえっていた。挑発して矢を二筋三筋射かけてみたが、何の反応もなかった。一同は大石内蔵助のもとに会同し、上野介の首級をそれぞれの眼でたしかめ、戦場の作法どおり、しかし控え目に勝鬨《かちどき》をあげた。そして予定していたとおり、総勢が吉良邸裏門にそろって人員の点呼を取った。死者はおろか重傷者もゼロ。薄手が一両人とまことに損害は軽微であった。なお、この点呼は後に「寺坂問題」を考えるときの一つの伏線になる。  赤穂浪士一党の吉良邸引払いは、「其内夜明に罷り成り候につき」とか、「未《いま》だ透《すき》とあけはなれ申さず」とか表記が一定せず、正確な刻限はつかみにくい。だいたい夜が白みはじめた時分という感覚である。江戸時代の不定時法では、冬至前後には現代の午前六時頃を基準にして「明《あけ》六ツ」という言い方をする。その刻限よりは早かったのである。してみると、吉良邸討入りの電撃的奇襲はわずか二時間以内に片付いたことになる。しかも前半一時間足らずで吉良邸は制圧され、後半は上野介一人の行方探索であった。一党は、上野介の首級を槍先に高く掲げ、本所から一路高輪へ、亡君の墓所である泉岳寺への行程をたどる。その所要時間の方がもっと長かった。  ◆泉岳寺引揚げ[#「泉岳寺引揚げ」は太字]  大石内蔵助の撤退計画の第一は、回向院に全員を収容して休息することである。本所切絵図で示しておいたようにこのもと無縁寺は、吉良邸裏門と道路一つで向き合っている。ところが住持は寺法を口実に、「暮六ツから明六ツ」までは、どなた様も出入禁止になっているとつっぱねた。寺側はすくみあがっていて、再三申し入れても同じ理由で拒絶した。このことは傍証的に討入りの成就が「明六ツ」(午前六時)以前に片付いていたことを物語る。  一党はやむなく、両国橋東詰の空地に集屯し、上杉家の追手を待つ手筈をととのえた。ところが相手には何の動きもなかった。ちょうどこの時刻、上杉家の桜田藩邸で何が起きていたかは後述する。来ぬ相手をいつまで待っていても仕方がない。ここで大石は、吉良上野介の首級を泉岳寺の亡主浅野内匠頭の墓前に実検に供えることができると判断し、それを実行すべく高輪への行進を下知したのである。  それは異様な集団の行列であった。いずれも徒歩で、同志の肩を借りて足を引きずる者もあり、火消装束から血をしたたらせている者もあり、高齢者にはなんとか調達した駕籠で運ばれる者もいた。天下泰平の元禄十五年(一七〇二)十二月十五日の早朝、それはまさに異形の一群の出現であった。  一党は、両国橋を渡るのを避けた。当日は月例の諸大名の将軍拝賀日(『徳川実紀』巻四十六)であり、もし両国橋を進んでゆくと、神田筋から通《とお》り町筋(日本橋通り)にかかり、いずれも堀一重を隔てて大小名屋敷町であるから、どんな変事が出来するともかぎらない。大石は慎重だった。泉岳寺に直行することが第一義な目標だったからである。回向院門前から本所一つ目橋を南下。隅田川沿いに本所御船蔵の後《うしろ》通りのコースをたどり、新大橋《ヽヽヽ》も渡らずにまた南下、元禄十一年(一六九八)にできた永代橋《ヽヽヽ》を渡って霊岸島から築地鉄砲洲へ出た。そこから木挽町、汐留橋を経て、松平陸奥守邸門前(仙台藩伊達家芝口藩邸)にさしかかり、ここで初めて門番から本格的に誰何《すいか》されたが、赤穂浪士団だと名のったら何もいわずに通してくれた。こうして一党は、芝金杉橋を経て、疲労困憊の末に江戸は南のはずれ高輪の泉岳寺までたどりついたのである。一党の行列は武家地を極力迂回し、町屋地のしかもその外回りといういわば江戸南郊の半周経路をたどった。  その途次、六ツ半時(午前七時頃)、大石は吉田忠左衛門と富森助右衛門に命じて、大目付仙石伯耆守久尚(旗本千八百石、居邸愛宕下)に趣かせ、一件を御公儀に届け出るように別行させた。新橋あたりまで行列がさしかかったときとあるから、よいタイミングだったのである。両人が仙石伯耆守と面談したのは「朝五ツ前」(午前七時半)という早朝であった。誰にとっても長い一日がまた訪れたのである(『江赤見聞記』巻四)。  吉田・富森両人が差出した「口上書」は、前夜の吉良邸討入りから泉岳寺引揚げまでの経過を記した簡略な文書であって、特にここで紹介する必要はない。伯耆守はさっそく月番老中稲葉丹後守正往の邸へ行き、ともに登城。「八ツ時過」(午後二時頃)に吉田・富森を待たせておいた自邸に戻った。城中では老中評定が開かれ、浅野家浪士を四つの大名家に預けるという方針が一決したらしい。それが何らかのいきさつでいきなり泉岳寺からではなく、いったん全員を仙石伯耆守邸に収容してからという手続きを取ることになった。この通達は伯耆守名儀で、「七ツ過」(午後三時半頃)に泉岳寺へもたらされた。  泉岳寺で浅野内匠頭の墓前に、宿敵吉良上野介の首級が献じられたことはいうまでもない。このセレモニーは一党の本望成就のピークだったが、世間によく喧伝されていることでもあるからここでは省略する。また、泉岳寺の御公儀への報告書も型通りで四角四面だから、あまり面白くない。見るべきものは、むしろ『白明話録』と題された小回想記であろう。話者の白明は、十九歳のとき月海という法名で泉岳寺で修行中の僧であった。後に土佐国宿毛の南泉山東福寺の主座になっている。白明はその字《あざな》である。この談話は宝暦九年(一七五九)四月、白明が七十六歳の時のもの。たしかに遠く歳月を隔ててはいるが、このような事件に際会し、当事者を眼のあたりにしたという記憶はそう簡単に薄れるものではなかろう。それにだいいち、この老僧にはなんら虚飾とか自己弁護とかの必要がなかった。信用してよいのである。  記憶によみがえる当日の泉岳寺は大混雑であった。浪士たちを寺に入れた後、見物人がぞろぞろ押し懸けてきて門前の雑踏は引きも切らず。寺内では、浪士たちは歓待された。まず粥が出た。それを平らげて、若い衆はともかくぐうぐう眠ったという。やがて正式の「朝飯」——寺の作法でいう「朝飯」だろう——が供され、みんなさかんな食欲を示した。これがおおよそ「申《さる》の上刻」(七ツ時——午後三時半頃)のこと。間もなく大目付から護送の役人たちが到着し、一党は整然と泉岳寺を去って行った。もう「暮六ツ時」(午後五時頃)のことであった。  この『白明話録』には、もう一つ重大な記載がある。寺坂吉右衛門の行方のことである。こういう事件については寺社奉行に届け出なければならない慣習なので、泉岳寺では一人一人の名前をいわせて書き留めると、四十五人であった。吉田忠左衛門と富森助右衛門とは仙石邸に趣いているから、二人を差引けばちょうど四十七士となって計算は合う。ところが人員の数を数え直すと、どうしても四十四人しかいない。一同は、いや、四十五人いるはずだという。やむなく点呼形式で一人ずつ名を呼び、当人から返事をさせてみると、寺坂吉右衛門一人だけがいないと判明した。「いづれも申さるゝには、夜前討入しまで、吉右衛門は一所に門へ入り、一所に居たりしが、どうして居ぬわと有る事なり」——浪士たちもそのときまでまったく、寺坂吉右衛門失踪には気がついていなかったのである。この記述には根本的なリアリティがある。これは「寺坂問題」を考える第二の伏線である。  さて、このようにして今や寺坂吉右衛門を欠いた四十六士は、愛宕下の仙石伯耆守邸に全員が集められ、長道具と武器とを所定の場所に預け、一同は書院で大名家預かりまで待機という運びになった。伯耆守は、四家の引取り役人を邸外に待たせたまま、職掌上いろいろ一同に訊問している。主として応答したのは大石内蔵助と吉田忠左衛門であった。  「上《かみ》に対し奉りて毛頭《もうとう》御恨みがましき儀これ有るまじき処に、各《おの》おの騒動に及び候事、重々不届きに候」と、伯耆守はまず高飛車に出た。大目付という役職は厳正刻薄、いささかも私情をまじえず、「天下の大法」に反していたか否かを糺問する立場である。大石は奏然と、御公儀に対する恨みなどいささかもなく、ただ吉良殿への亡君の鬱憤を晴らしたかったので、夜分に推参してお討ち申しました、と答えた。  伯耆守がさらに問うには、其方《そのほう》は「在所勝手」であるか「御当地勝手」であるか。大石が答えていうには「在所勝手」でござる。つまり、江戸不案内でございます。これはなかなかトリッキイな質問である。すかさず畳み込んで、吉良邸討入りは何時であったか。「八《ママ》ツ過」(午前二時過)でございましたでしょうか。それは夜討ちであるな。火を持参していたにちがいない。提灯・松明を用意してはいなかったか。一つの罠《わな》であった。  大石・吉田は即座に、いやいや、御城下火の元の厳しい取締りは重々承知致しておりましたので、火を持参することは厳禁と堅く申し合わせました。殊に昨夜は月明が光強く、何の不自由もございませんでした。伯耆守「では屋内ではいかが致した」。乱入したとき番人を一人とらえ、|ろうそく《ヽヽヽヽ》を出させて照明と致したことでござる。——こんな具合に問答は続き、上野介討取りまで進むのだが、大要は前述のとおりだから反復をはぶく。伯耆守はしだいに相手に感服する思いを持ちはじめたらしい。だが役儀上そんな感情は顔に出せない。あと一つか二つ、糺しておかねばならぬ点があった。一つは、吉良家の側の働きであった。大石・吉田はこう答えている。 [#ここから1字下げ]  討ち留め申し候者、十四、五人かと覚え申し候。上野介様御家来、夜中と申し一人もぬけがけ(単独戦闘)、拙者共は覚悟つかまつり、一人に四、五人ヅツかかり討ち留め申し候。其後、長屋へ回り、此節|志《こころざし》の者出合ひ様にと申し候えども、|一人も出合申さず候《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。それゆえ火の元気遣ひに存じ、部屋々々迄も入り、火に水をかけ焼《やき》をしめし、|ろうそく《ヽヽヽヽ》のとぼしかけ一所に集め、数を改め水をかけ申し候。 [#ここで字下げ終わり]  伯耆守はなおも食い下がる。御城下で大勢が屋敷に討ち入り、咎もない人間を多数殺傷し、しかも弓矢など飛道具を使用したのは御公儀を憚からぬふるまいではないのか。これに対して、大石内蔵助はやや|きっと《ヽヽヽ》なって答える。(この男は実戦を知らないのか?) [#ここから1字下げ]  長道具は武士の持つべき義、これまた大勢に渡し(り?)合ふ時、本望を遂げ申すべきためなり。上《かみ》を憚り存じ奉るしるしには、甲冑を着しつかまつらず候。鉄砲を持参つかまつらず候。 [#ここで字下げ終わり]  それに大目付殿は多数の人々を殺傷したと申されるが、先方には先方の一義あり。主君を守って防戦するのは武門のならい。当方としては妨害者を討つのは理の当然。われらはただ抵抗する者を突き伏せ、斬り伏せたまでにて、その証拠にはだれ一人として止めを刺してはおりませぬ。事実そのとおりであった。  ややあって仙石伯耆守は、もうこれ以上尋ねることはないから、四十六士はこれから四大名家へ分散移送されてお預けの身になると申し渡した(以上『江赤見聞記』巻六)。十二月十五日はまだ終っていない。が、いずれにせよ、赤穂四十六士はこのとき仙石邸で一堂に集められてから、その後二度と会同することはなかった。移送の駕籠は四つのグループに分れて、次々と仙石邸を出発して行った。しかし、この長い一日の記述はそれだけでは済まない。当日の未明から夕方にかけて、上杉家はどんな動きをしていたのだろうか。  ◆米沢上杉家江戸藩邸[#「米沢上杉家江戸藩邸」は太字]  米沢藩上杉家の桜田上屋敷に事件の第一報をもたらしたのは、本所の豆腐屋だった。この男は遠路を息を切らせて駆けつけ、いま大変なことが吉良邸で起きている、はっきりした様子はわからないがともかく御注進に及びます、と門外で通報して帰った。身分柄また早暁のこととて邸内に入れてもらえなかったのである。  この第一報が届いた時刻については、上杉家側の記録には二つ異なった記載がある。『大熊弥一右衛門見聞書』には「七ツ半時」(午前五時頃)とあり、『野本忠左衛門見聞書』にはそれが「明六ツ時前」(午前六時頃)とある。わずか一時間かそこらの違いといえばそれまでだが、この時差は上杉家の反応を測定する度合としてはかなり大きい。問題の通報内容は、十四日の「八ツ半時」(午前三時頃)、吉良邸へ浅野内匠頭家来百五十人ほどが夜討ちをかけて押し込んでいるというものであった。最初のうち藩邸はまともに取り合わなかったらしい。ところがすぐその後、吉良左兵衛の足軽の一人が現場を逃れて来て同様の状況を報告した。藩邸もようやくこれは只事ではないと気が付いたのである。この足軽は丸山九左衛門といい、長屋の壁を内側から必死で破って脱出した四人のひとりだったが、一報後どこかへ逐電してしまった(『本所敵討』米沢図書館蔵)。  米沢藩上杉家の奥取次野本忠左衛門が藩邸内の居部屋で当番衆からの手紙を受け取ったのは、「ほのぼの明」の時分であった。こんな時間に公用の手紙は不審だと感じ、いったん灯火で読もうとしたが、縁の障子を開いて眼を通したというあたりに、まさに薄明《ヽヽ》の感じがよく現われている。あわただしく一読して、これは緊急事態だと了解し、衣服を改め裃《かみしも》を着けて、広間へ参上したところ、もう藩邸の重役たちはみな詰めかけていた。「此節もはや|夜明け《ヽヽヽ》申し候」と野本忠左衛門は記している。これはおそらく「明六ツ時」(午前六時)を迎えていたという意味だろう。  なぜ時間にこだわるのかというと、筆者の念頭には、かたや本所吉良邸、こなた桜田上杉邸というスペース=タイム・テーブルが浮かんでいるからである。夜明け時という|まさにこの一点《ヽヽヽヽヽヽヽ》、本所では赤穂一党は吉良邸を引き揚げ、泉岳寺に向って行進を開始していた。桜田ではようやく重臣会議が始まるところだった。つまり、情報は決定的に遅れていたのである。  もう一つ時間のことをいえば、上杉家側の資料では、あたかも口裏を合わせたかのごとく、赤穂浪士が討ち入ってきた時刻を「八ツ時」としていることに気づく。『米沢塩井家覚書』にいたっては、「十四日夜八ツ過、七ツ半過ぎ候由」と、時刻特定はおそろしくルーズである。なにしろ寝込みを襲われたのだから、正確に何刻《なんどき》であったか判断できなかったのはよくわかる。しかし、後述する幕府検使衆への吉良邸在住者側の口上が異口同音に「八ツ時」と供述しているのを見ると、なんらかの�作為�を感ぜざるをえなくなる。一刻すなわち二時間の違いは、武門の名誉に関しては決定的である。疑いもなくそこには、吉良邸側が長時間にわたって抵抗・防衛したことを主張したいという心理、むしろタテマエがはたらいている。  赤穂浪士方の供述はすべて「七ツ時」としていることは前述のとおりで疑いを容れないが、まあそれでも当事者の一方的発言だとする立場をいちおう取るとしよう。第三者の証言が必要である。その記録は残っている。吉良邸に隣接する旗本屋敷からの幕府への届け出口上書である。塀一つ向うの土屋主税邸のことはさきに少しふれた。その口上書はどうなっているか。「昨夜|七ツ前《ヽヽヽ》頃、隣家吉良左兵衛屋敷騒がしく候間、火事にて候やと存じ、罷り出で承り候えば、喧嘩の体《てい》相聞え申し候」と以下は片岡・小野寺・原の塀越しの挨拶になり、本望成就も告げられたとある。そして「夜明前《ヽヽヽ》、裏門前へ数五、六十人も罷り出で候様に相見え申し候。何れも火事装束の体、相見え申し候。尤《もつとも》、闇《くら》く候て|しかと《ヽヽヽ》見留め申さず候。此外は何にても存ぜず候。以上。」  いやはや、何ともみごとにシラを切ったものである。吉良邸表門と小路一つをはさんで向いあう牧野一学邸の口上は、「昨夜|七ツ時分《ヽヽヽヽ》、火事にてもこれある様に方々人声致し候」といっており、その後すぐに騒ぎが静まったのでそれ以外は知らぬ。吉良邸と塀を隔てた(土屋主税東隣り)本多孫太郎邸は、「昨夜|七ツ時《ヽヽヽ》何とやらん物騒がしく火事などの様子に御座候」といい、後は何も知らぬ存ぜぬという口上書であった。  さて、さきの野本忠左衛門は、事態が容易ならざることを知ってただちに現場に急行しようとしたが、上役に押しとどめられた。本日は別に当番がいるというのである。こんな緊急時に当番も非番もあるかと押し問答。それでもともかく殿様(上杉綱憲——吉良上野介実子)にお伺いを立ててからということになって、しばらく待ったが埒が明かないので、忠左衛門は勝手に本所吉良邸に向かった。この米沢侍は、赤穂一党がまだ現場にいるかもしれないと思っていた。しかし、相手はさっさと引き揚げた後だったのである。吉良邸裏門から入った忠左衛門が目撃したのは、ただ一言、惨状であった。  吉良左兵衛は、上野介隠居所の寝間にぐったり横たわり、家臣が一人しか側についていなかった。長廊下には手負・死人がごろごろ転がっていた。筆舌に尽しがたいありさまだった。玄関から広間にかけては、槍・まさかり・籠手《こて》・掛矢などが散乱していた。死者の中に何人か顔見知りがまじっていた。隠居所の坪庭の泉水に足を入れたまま倒れているのは、おお、鳥居理右衛門ではないか。隠居所の御膳部に突っ伏しているのは、山吉新八(これは誤認であった)。御書院前の廊下で刀身を|ささら《ヽヽヽ》のようにして討死していた須藤与市右衛門。そして、上野介様の御遺骸には、あろうことか、首がなかった。  腹が煮えくりかえる思いだったに違いない。しかし、死傷者ならびに生存者の検分は、やがて幕府目付の安部式部・杉田五左衛門が到着して、事情を聴取し、正式の報告書を作るだろう。詳細後述。忠左衛門の役儀はそうではない。どこまでも、|尚武の名門《ヽヽヽヽヽ》上杉家の体面を押しとおす意地をつらぬかなければならない。吉良上野介は、首を落される前に「ずいぶん御働き(奮戦)遊ばされ候御様子」と記す。左兵衛は長刀をふるって斬りかかり、相手に手傷を負わせたが、御自身も額と脇から背中に傷を受けて、やむなく退いた。|けなげ《ヽヽヽ》であった。だが、相手は不破数右衛門だった。一溜りもなくて当然である。忠左衛門が、「なかなか御若輩と申し、御手馴れ遊ばされざる候儀に候ところ、けなげなる御働き感じ奉り候」と賞讃したのも不自然ではなかった。しかし、『野本忠左衛門見聞書』のホンネは、末尾に「追啓」として補筆した一文にある。討入り勢は、第一に、吉良邸の人員を長屋に封じ込め、出ようとすれば槍で突き、あるいは刀で斬り掛け、出るに出られぬように長屋を制圧した。第二に、総員が充分な|着込み《ヽヽヽ》(鎖かたびらなど)をしていたので、こちら側は刀の刃が立たなかった。相手を損傷できなかった。 [#ここから1字下げ]  此方《こなた》にては、初めは火事と心得、後かたき討ちと気付き候へば、なかなか夜陰と申し、途方もなき筈に候。然れども、どれどれもよく働き申され候ゆえ、向ふも数多《あまた》深手をこうむり申し候と存じ候。上野介様御首取り候段、高声に名乗り勝ちどき作り揚げ申し候。誠に項軍《こうぐん》(項羽の軍勢——注)とも申すべきほどの事に候。|近年これ無き大事《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|日本の沙汰に及び申す事《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、寔《まこと》にゝゝ驚き入りたる事どもに候。 [#ここで字下げ終わり]  この文章は矛盾と苦渋に満ちている。野本忠左衛門は、一方では米沢侍の不甲斐なさに立腹しつつ、それでもよく闘ったと強調せざるをえない。そして心中ひそかに、相手方の手腕にほとんど感歎の辞を放っているのである。歯ぎしりする思いで、相手の手際に敬服しているのである。  事務的な現実に戻ろう。十二月十五日の「八ツ時過」(午後一時半頃)、幕府目付の安部式部・杉田五左衛門両名が本所吉良邸に到着した。まず検死の結果は、吉良家側の死者は十六名《ヽヽヽ》であった。『吉良本所屋敷検使一件』によって死者の名誉のために名を挙げれば、それは以下の面々である。  南小屋役人小屋にて 家老    小林平八郎  座敷の庭にて    用人    鳥居理右衛門  台所口にて     中小姓   大須賀治郎右衛門  台所にて      同     清水一学  座敷居間にて    左兵衛用人 須藤与市右衛門  玄関にて      中小姓   新貝弥七郎  台所にて      役人    小堀源次郎  祐筆小屋にて    同     鈴木元右衛門  小屋出口にて    同     笠原長太郎  台所にて      同     榊原平右衛門  小玄関口にて    中小姓   左右田孫八郎  同所にて      左兵衛坊主 鱸 松竹  廐の前にて     坊主    牧野春斎  玄関前にて     台所役人  森半右衛門  小屋口にて     小姓    斎藤清右衛門  小玄関前にて    仲間      権十郎  以上のとおりであるが、これとは別に屋代弘賢の随筆『不忍叢書』第十三冊に『浅野吉良一件』なる文書あり。死体発見現場の表記に少々異同があるだけで、だいたい右の記録と一致している。どだい、場所特定を正確にというのがそもそも無理な話であって、前に吉良邸の絵図は三種類あると記したが、その一つ一つは部屋の名の呼び方も異っている。しかも吉良邸の建具はさながら台風一過、赤穂一党の徹底した破壊探索でめちゃくちゃにされていたから、どこが居間やら書院やら、幕府検使の眼には区別もつかなかったであろう。  それにもかかわらず、一つの事実は明瞭である。吉良方の死者の倒れ方には|ばらつき《ヽヽヽヽ》がない。つまり、吉良邸の敷地のあちこちで局地的なチャンバラをしていたのではない。第一のグループは、表裏両門突破の際、抵抗したか物のはずみで殺されたかのメンバーである。長屋から応戦に飛び出した面々もこれに加える。第二のグループは、討入り勢が屋内に踏み込んだとき、表側と裏側とで必死に阻止しようとしたメンバーである。第三のグループはいよいよ中枢部に攻め込まれたとき、吉良上野介隠伏のために身を挺して時間を稼ぎ、また最後まで周囲を守った親衛隊的メンバーである。このことは逆に、いかに赤穂一党の侵攻への応戦が後手後手にまわらざるをえなかったかをも物語っている。  屋内戦は、手燭だけをわずかな光明とする暗闘であった。お互い同士、自分がだれと斬り結んでいるかわからないのである。月明の中から屋内の暗がりへ突入するときはだれでも怯む。とりわけ鳥居理右衛門の働きがすさまじく、斬込み組の若手浪士が斬り立てられているのを見かねて、実戦に馴れていた堀部安兵衛は「いづれも退き候へ」と声をかけ、激闘の末に相手を討ち取った。鳥居の頭部は二つに割られていたという。泉岳寺に着いてからお蔭で殊の外刃こぼれをしてしまったとぼやいたそうである(前引『本所敵討』)。  四十七士のうち、ただ一人大怪我をしたのは、近松勘六であった。もっとも当人は深手とはいっていない。赤穂一党の感覚では、指が一、二本落ちたくらいは負傷と考えていなかったようなのであるが、ともかく勘六の太腿には深い刺し傷があった。相手と斬り結んで泉水に追い落し、自分も飛び込んで討ち留めようとしたが、相手が倒れながらも刀をかざして立ててあったのに気づかず、深股にぐさりと刺さっていたという(『白明話録』)。相手はだれだったのだろうか。野本忠左衛門が信じたように、鳥居理右衛門ではなかったようである。  不破数右衛門はもっとものすごかった。生れつき殺気をはらんだ人間がいるものである。『赤水郷談』という巷話集が赤穂に残っている。虚実はいざ知らず、数右衛門の来歴についてちょっとこわい話が記されている。「兇暴にして勇気を好み、※[#「鹿+(鹿+鹿)」、unicode9ea4]豪《そごう》(粗暴)の人なり。始め在江戸の時、夜々忍び出て辻斬りをなせしかば、長矩公、彼は国元にて召し仕ふべしと命ありて、赤穂へ来たりけるとぞ」というのである。その素行はおさまらなかったらしい。すぐに赤穂藩を浪人している。そして今回主家の変事に発奮して、一味徒党の列に加えてもらった。  確信をこめていうのだが、いつの時代、いかなる歴史的大事件にも、このようなタイプの人種は出現する。そして現場ではかならず必要とされるし、まちがいなく有能である。不破数右衛門は裏門組であった。屋内へ斬り込むとき若手はさすがに怯んだらしい。数右衛門は後から叱咤した。「(相手の抵抗の)手に合ひ申さざる者も御座候。なかなか鈍き者ども御座候。私に叱られ少しずつ入り込み申し候。大方一番のはたらきと存じ奉り候」(『不破数右衛門書状』、日付不明)。  これはかならずしも自画自讃ではなかった。大石の書状は、「数右衛門事一人前働きよほどすぐれ申し候」と論功しているし、事実、その太刀はすっかり刃こぼれして|ささら《ヽヽヽ》状態になっていた。それは数右衛門が相当の手練《てだ》れと斬り結んだことを物語る。相手は特定できない。だが、数右衛門も着物・籠手に数箇所斬り込まれたほどの手腕であった。|着込み《ヽヽヽ》が手傷を負わせなかった。相手は斃れた。  それにしても、不破数右衛門はまだ三十三歳の壮年であった。同じ裏門組の間喜兵衛(六十八歳)と小野寺十内(六十歳)の二人は珍妙なコンビを演じていた。この両人の前に裏門脇の長屋から男が二人飛び出してきたのである。一人目は小野寺十内が槍で突き殺し、二人目は間喜兵衛が突き伏せた。爺さんようやる、という感じである。ところがこのとき、刺された男が倒れざまに念仏を唱えたのが聞こえた。「老人の罪作りとや申すべき」と、この二人はあまりよい気持ではなかった(『小野寺十内書状』、元禄十六年二月三日)。  吉良邸側の死者が十六名だったというのは、非情なほどみごとな戦場合理主義《ヽヽヽヽヽヽ》の所産である。物のはずみは致し方ない。しかし、討ち入った一党は抵抗する者は殺傷するが、戦意を示さぬ者はこれを無視するという原則をつらぬいた。吉良邸の生存者《ヽヽヽ》——という表現すらどこかおかしい——が、何よりもそれを裏書きするだろう。生存者は、「手負人」と「無事人」との二つのグループに分れる。「手負人」の口上は、長屋番にしても近習番にしても、相手に立ち向かったがたちまち多数に槍あるいは刀で手傷を負わされ、やむなく戦線からしりぞいたという言い分である。戦闘不能になったのか、それともただの口実であるのかは一概には判断できない。いずれにせよ、幕府検使報告によれば、「手負者」は二十人余りである。また、「無事人」の口上というのもあって、徒士《かち》身分の者が連名でこんな文面を提出している。姓名は紹介するに及ぶまい。 [#ここから1字下げ]  昨夜八ツ半時分、長屋々根にて騒がしく火事御座候由を申すに付き、早速罷り出で見候処に、槍抜き大勢罷り越して押し込み申に付き、また小屋の内え這入り申し候処、そのうち外より戸をたて、出《いだ》し申さず候。何人《なんにん》参り候やその段|見分《けんぶん》申さず候。重ねてお尋ね候とも、このほか申し上ぐべき様御座なく候。以上。 [#ここで字下げ終わり]  これほど徹底した無抵抗主義はまたとあるまい。相手の気迫に完全に呑まれていたといえばそれまでであるが、かりにも吉良家の士分である。その人員数は五名連署以外は不明。それとはまた別に、吉良家|仲間頭《ちゆうげんがしら》の口上書もある。主旨は、「十二月十四日夜八ツ半時、何人とも知れず大勢屋敷の内へ押し込み、我等ども居り申す部屋の口につき罷り在り候て、出し申さず候」の一文に尽きる。吉良邸の仲間の総数は、合計八十九人とある。逐電者も徒士・足軽とりまぜて何人かいるから、けっきょく十二月十四日当夜の吉良家の在邸メンバーは概数しかわからない。ざっと百二十五人ぐらいはいたのである。しかし結果としてその過半は、非・戦闘要員化されてしまった。  それどころではない。『米沢塩井家覚書』の伝えるところによれば、討入り勢に台所でつかまった役人は誰何されて、「私は菓子・|ろうそく《ヽヽヽヽ》の役人にて候」と答えたところ、さっさとそれを出せと脅され、一党は屋敷中に|ろうそく《ヽヽヽヽ》を立て、おまけに菓子までつまんで次の行動に移っていった。だが、こういう個々のエピソードをいくら集めても仕方がない。重要なのは、吉良邸討入りがあった朝の当日からすでに見え見えな米沢上杉家の厭戦ムードである。『大熊弥一右衛門見聞記』は、まだ浅野の残党が攻めてくるのではないかという危惧を冷嘲して、「さてもゝゝゝ陣小屋と申すにてこれ有るべきや。手負共は居り申し、血ばかりの中にて汁もなく、くろ米めし(玄米)食ひ候て居り申し候。いつまで本所へ通ひ申し候。太儀《たいぎ》なる事に御座候」と、不満たらたらの気持であることを隠そうとしていない。  野本忠左衛門らが本所吉良邸で惨憺たる思いを味わっていたとき、そして赤穂一党が長程をたどっていたとき、上杉家では何が起きていたのだろうか。三つの漢語で言い表わすことができる。いわく優柔不断、狐疑逡巡、そして事大主義。  藩邸ではもちろん、時を移さず本所吉良邸に人数を送り出すべしという動きが湧きあがった。しかし、桜田上屋敷と麻布下屋敷とからの両勢をどう合流させるかなどと議論しているうちに、赤穂一党はもう本所を撤退したという情報が到来。現在のところ所在不明。それを探索して駆けずりまわったら、「江戸中の騒ぎ」になりかねないという慎重論が、今度は出て来た。  当主上杉綱憲は病中であったが、実父を殺されて激昴するのは当然である。ただちに馬廻りの士卒を繰り出して、赤穂一党を一人も余さず討ち留めよ、と下知して荒れ狂った。そうすると、なぜかそこに姿を現わすのが、高家の畠山下総守|義寧《よしやす》と若年寄本多紀伊守正永の二人なのである。二人は藩主綱憲はじめ米沢藩の重臣たちを説得して、強いて追撃しようとしたら「上意違背の道理」になりますぞと警告した。 [#ここから1字下げ] (畠山)下総守物語にて、(赤穂勢は)泉岳寺え取り込み居り候と聞え候えば、行先も相知れ候間、押し寄せ候事最も安く候。さりながら、違背に成り候節は、|吉良の喧嘩を上杉え請け取り《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|御名字に障り有り候ては《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|大切なる事《ヽヽヽヽヽ》と申す内に、段々泉岳寺へも御目付衆相越し、其上もはや取り寄りも相成らざる様に承り候間、拠《よんどころ》無く黙止《ヽヽ》申す事に承り候。(米沢藩『編年文書』四十四) [#ここで字下げ終わり]  右の引用中、傍点した「吉良の喧嘩を上杉が買うということになりましたら、御名門の家名の存続にも支障が生じますぞ」という語句は、明らかな恫喝の言辞である。『上杉綱憲年譜』には、このとき畠山下総守はもちろん当主の気持を静める口約束でもあっただろうが、「凶徒ノ奴バラ、公儀ヨリ不日御成敗アルベキ儀」があると言質を与えている。米沢藩重臣グループは、最初からそのつもりでいただろう。一藩の命運を賭してまで赤穂一党を追討する意図などさらさらなかった。しかし、それとはまったく別箇に上杉家の士風というものがある。多少俗説じみてくるが、『赤穂士話』には、在所家老長尾権四郎なる人物が、「弾正殿(綱憲)はたとひ腰抜けたりとも、江戸家老は何をいたし居りたるぞ、長尾(上杉)の家の瑕瑾《かきん》たり。公儀へ訴へ、主人を取り替ふべしと云つて腹を立つる由」と放言したという話が書き残されているくらいである。  上杉家の桜田藩邸で、右のように衆議が定まったのとほぼ同じ時刻、泉岳寺では大石内蔵助が住職に向かって、「上杉様にも、米沢十五万石御差し上げ候ても、御父様の御事に候えば、御自身御出で遊ばされ候」と語っていた。とんでもない過大評価であった。上杉家の自重ぶりはすでに見たとおりである。ところが、世論もまた大石が考えたように考えていた。上杉家はどう出るか。幕府が四十六士の身柄をにわかに泉岳寺から仙石伯耆守邸に移送したのも、その理由からであった。  ◆四大名家へのお預け[#「四大名家へのお預け」は太字]  仙石伯耆守久尚邸は、愛宕下にあった。  愛宕下は、西に愛宕山、南に芝増上寺をへだてた武家屋敷地である。伯耆守は、『徳川実紀』の記録では、元禄十年(一六九七)二月十二日に大目付に任じられている。それに先立って天和元年(一六八一)、丹波守《ヽヽヽ》久尚(次男)が父因幡守久俊の死に際して六千石中一千石を分封されたとある。因幡守邸は芝口にあった。源助橋にも近く、町屋地に隣り合った一画である。  愛宕下は、さきに吉良上野介邸があった呉服橋門内の大名小路と並んで、あるいはそれに次いで、当時もう一つ「大名小路」と呼ばれていた地域であった。大目付の役儀は重く、老中の監視すらその職務のうちだったから、仙石伯耆守邸も職権の格式上、愛宕下という土地のステータスからここに屋敷替えしたのであろう。当然、周囲は大名屋敷ばかりだ。この一帯だったら、上杉家の手勢がもし押し寄せようとしても攻めにくいと幕府当局者は判断した。泉岳寺は江戸の南郊高輪の寺社地のまんなかにあった。おまけに白金村をはさんで数町先には、上杉家の下屋敷があるという地の利の悪さであった。事態が急を告げたら、下屋敷といえども拠点たりうる。その上偶然とはいえ、上杉家は芝増上寺の火の番というまたとないカモフラージュになる役儀に当っていた(『松平隠岐守殿之御預け一件』)。  赤穂四十六士の四家への預りは、以下のようなグループにまとめて言い渡された。   細川越中守お預け(十七人)  大石内蔵助   吉田忠左衛門  原惣右衛門   片岡源五右衛門  間瀬久太夫   小野寺十内  間喜兵衛    磯貝十郎左衛門  堀部弥兵衛   近松勘六  富森助右衛門  潮田又之丞  早水藤左衛門  赤埴源蔵  奥田孫太夫   矢田五郎右衛門  大石瀬左衛門   松平隠岐守お預け(十人)  大石主税    堀部安兵衛  中村勘助    菅谷半之丞  不破数右衛門  千馬三郎兵衛  木村岡右衛門  岡野金右衛門  貝賀弥左衛門  大高源五   毛利甲斐守お預け(十人)  岡嶋八十右衛門 吉田沢右衛門  武林唯七    倉橋伝助  村松喜兵衛   杉野十平次  勝田新左衛門  前原伊助  間新六     小野寺幸右衛門   水野監物へお預け(九名)  間十次郎    奥田貞右衛門  矢頭右衛門七  村松三太夫  間瀬孫九郎   茅野和助  神崎与五郎   横川勘平  三村次郎左衛門  (寺坂吉右衛門)  四大名家から派遣された人数は、途中で引取り場所の変更を通知されたのでかなりの混乱を生じたが、到着に前後があってもいずれも仙石邸の周囲に集結して待機した。なにしろその総勢の数が多いのである。細川越中守(熊本藩)邸から七百五十人、松平隠岐守(松山藩久松家)邸から約三百人、毛利甲斐守(長府藩)邸から約二百人、水野監物(岡崎藩)邸から大略百五十人。総勢|千四百人《ヽヽヽヽ》が、愛宕下大名小路にひしめいていた。上記の数字はどれも各藩の預り記録に残されている。たった四十六人の赤穂浪士の身柄受取りのためになぜかくも多数が動員されたのか。御徒《おかち》目付のひとりがぽつりと洩らしたとされる「公儀にも上杉をお心もとなしとの義に候条、その覚悟にて途中念入りに引き取り候様に」(『毛利家赤穂浪人御預之記』)という暗示がすべてを物語っている。愛宕下に集屯した武士たちは、みな胴震いがするような精神の底冷えを感じていた。それは当日から当夜にかけての寒気とわかちがたく、元禄十五年十二月十五日のこの全場面に通奏低音のように沁みわたっていた。  松山藩久松松平家中に、波賀《はが》清太夫|朝栄《ともひさ》という人物がいた。やがて大石主税の介錯人を命じられることになる武士である。『波賀清太夫覚書』という記録を書き残している。「忠臣蔵」事件とその周辺には、思いもかけぬかたちで人間《ヽヽ》が現われる、人間個人の人格が時として出来事の方向を左右することもある、とこれまで何度か書いてきた。いや、それを左右するほど参与できなくても、現に何が起きているかを洞察できる人格力《ヽヽヽ》のようなものを輝かせる人間が居合わせるのだ。後で述べる熊本藩細川家の堀内《ほりのうち》伝右衛門もそうであった。いまこの波賀清太夫はまったく反対のタイプであろう。依怙地《いこじ》であり、偏屈であり、几帳面であり、辛辣であり……要するにエゴの強い男であった。だからこそ、というべきかもしれない。清太夫は、上杉家の報復を確信していたのである。  自藩に預りが命じられたと聞くや否や、清太夫は前記の人数を編成して泉岳寺へ向かわせ、すでに一番手で到着していた水野監物勢と交渉して、強引に門外半分に自勢《じぜい》を割り込ませた。ところへ引取り場所変更の通達。すかさず、清太夫は折から沛然《はいぜん》と降り出した冷雨のなかを、自勢を仙石邸に疾駆させた。松山藩久松松平邸は同じ愛宕下にあり、その点も有利だった。何のために有利だったか。清太夫はこの任務を合戦の先陣争いと|感覚していた《ヽヽヽヽヽヽ》からである。新しい持場についてから、時刻はじりじりと経過し、夕方から夜にいたった。その情景は、清太夫がいまだかつて眼にしたことがなかった鮮明さで映った。 [#ここから1字下げ]  さて仙石殿内外へ詰め罷りあり候うちに夜半に及び、四家の人数上げ候|提灯《ちようちん》、隣の大名屋敷より出《い》だし候提灯、数おびただしく、目を驚かす体《てい》たらくなり。 [#ここで字下げ終わり]  平時ではまず見ることのない光量が、このとき愛宕下の一画を照らし出したのである。騒然を越えてむしろ粛然としたイリュミネーションがおのずと作る光と影の立体感のうちに、四十六士の身柄引渡しの実務が進行していった。一番に細川越中守殿家来衆と呼ばれ、大石内蔵助以下十七人が駕籠に乗せられて門を出て行った。二番手は当松山藩だった。大石主税はじめ十人を受け取って、同じく駕籠に乗せ、門を出る。続いて毛利家、最後に水野家。だが、そんな順番はどうでもよい。清太夫の網膜には決して忘れることのない一つの情景が灼きついた。 [#ここから1字下げ]  受取りに罷り越し候面々、平常厚味を食し、衣装を飾り、酒淫を事として治世に油断せし報い、当世の風になれたる者ども、寒天に午刻《うまのこく》(正午)前より子刻《ねのこく》(午前零時)過の儀ゆえ、飢渇して難儀に及ぶ。 [#ここで字下げ終わり]  それとは違ってわれらは——と、ここでこの人物の古武士的エゴが出る——日頃から鍛練しているから何でもなかった、と清太夫は豪語する。兵糧も用意しておいて、配下に供与して万全に備えていた、と。たしかに、千四百人の引取り勢は、藩によって遅速はあったものの、泉岳寺から仙石邸まで、まる十二時間寒気にさらされたまま立ちずくめであった。疲労困憊の様子もありありと見えたであろう。一方、赤穂浪士は前夜以来、泉岳寺でわずかな食事と睡眠を取ったとはいえ、消耗はもっとすさまじかったはずだ。しかし、気力がちがった。いまだ猛烈にアドレナリン分泌中であった。上杉が来ないわけがないと思い込んでいたからである。清太夫には、その姿が大きく見えた。仙石邸内で見た一党は、「上野介殿え仕掛けたる装束|其儘《そのまま》なり。着込み・甲《かぶと》・籠手《こて》・すねあてなどは火消装束のごとくに製《つく》り、半弓の人は矢籠を負ひ、槍・長刀を持つ。尤《もつと》も、白刃なり」。  波賀清太夫は、家中から閉口され苦笑され、またいつものお癖などと嘲弄されながら、上杉家の襲来を信じて疑わず、なんと鉄砲まで用意させていたのである。作戦計画も立てていた。愛宕下に来合わせた武士たち全部がとはいわない。だが、この心情はゆめゆめ清太夫ひとりのものではなかったと思う。だれもが幾分かは、上杉が来ることを予想し、|かつ《ヽヽ》期待していたのである。清太夫は一合戦したかった。この千載一遇のチャンスに何としてでも武士として一花咲かせたかった。仙石伯耆守邸で、赤穂浪士の姿に見入っている清太夫の心を去来していたのは、ありていにいって、あからさまな羨望であった。そしてもし心の深層を覗き込むことが許されれば、そこに渦巻いていたのは、何といおう、武士だけが知っている種類の、めくるめくまでに激しい嫉妬であった。  上杉は来なかった。そして何も起こらなかった。歴史的事件としての『忠臣蔵』のドラマにあって、そのハイライト・シーンは——筆者の見るところでは——吉良邸討入りの場面にではなく、その翌十二月十五日深夜、愛宕下の仙石伯耆守邸周辺にあったのではないだろうか。上杉家ついに動かず。それを責めているのではない。武士なら当然、波賀清太夫のように考えるべきだったといっているのでもない。——ただ、この夜まちがいなく、一つの時代が終焉したのである。 [#改ページ] [#小見出し]元禄十六年二月四日まで  ◆諸藩邸での赤穂浪士[#「諸藩邸での赤穂浪士」は太字]  細川越中守の七百五十人は、預りの浪士十七人をいずれも駕籠に乗せ、老人と怪我人もいたので静かに道を歩ませ、駕籠一挺につき騎馬一人、徒士一人がつきそって周囲を警固の士が固め、愛宕下から三島町(芝増上寺の門前町)・通り町(三田付近)・芝伊皿子坂というコースをたどった。細川家の上屋敷は呉服橋門内にある。十七人が護送されたのは芝の中屋敷だったのである。到着はもう丑《うし》の刻(午前二時)を過ぎていた。  この期間ずっと行列に付き添い、何くれとなく気を配っていたのが細川家の御使い番堀内伝右衛門(四百石)であった。当年六十九歳。温厚篤実などといったのではまだ言葉が足りない。年齢からというよりは生来の人間理解力に富み、お預りの浪士たちと胸襟を開いて打ちとけあうことができた。そこから貴重な記録『堀内伝右衛門覚書』が世に残ることになる。ここでもまたもや、事件とその周辺でいかに人間《ヽヽ》が大切であるかがよくわかるのである。この『覚書』から浮かび出るいくつもの人間劇については後で記そう。  どういうものか、細川家では最初からきわめて赤穂浪士に好意的であった。当日さっそくもう深夜だというのに、藩主細川越中守が直々に出座し、浪士たちの功労を賞しているくらいだから、いかに好遇されたかが想像できよう。何よりも、当邸では浪士たちを屋敷の母屋の二間に居住させた。もちろん勝手に出入することは許されなかったが、それでもつねに監視の眼を光らせているというような所遇はしなかったのである。  他藩邸へ運ばれて行った浪士たちは、そうはゆかなかった。久松松平藩では、その夜はとりあえず、仙石邸と同じ愛宕下の上屋敷に預かり人十人を受け入れ、料理を出した。翌十六日には、上屋敷では手狭であり、火の許も無用心であるという理由で、十人を三田の中屋敷に移送した。ここにも波賀清太夫の性格が出て、護衛は厳重をきわめ、清太夫は鎖を着込み、挟み箱に具足を入れるという周到さであった。十人は長屋の二つの小屋に五人ずつ分けて入れられ、台所番、見廻り番、不寝番が付けられた。どうも清太夫という人物には、完璧主義的な几帳面さがあったらしい。早くも切腹の処断が下ったときの準備をととのえ、自身は大石主税の介錯人と定められた。  とはいえ、波賀清太夫はただの融通のきかない木石漢だったわけではなかった。この人物なりのやり方で、預り人に近づき、やはり興味ある談話を引き出してもいる。『松平隠岐守殿ぇ御預け一件』中、『吉良上野介殿一条聞書』という文書である。もしかしたら当家にはまた別の人材がいて、浪士たちの口を開かせたのかもしれない。しかし、この事件にこれほどの熱意をもって相手の肉声を引き出すという根性の持ち主は、ちょっと他には考えられない。この『聞書』もまた後述。  長府藩毛利家は、お預りを命じられたときまず藩主甲斐守が、「乗物を細引きにてからげさせ申し候や」と伯耆守に質問したことからもだいたい察しがつく。伯耆守もさすがに呆れて、「錠を御おろし候とも、細引にてからげさせ候様になりとも、御かけ候とも御勝手次第」と返事をした。武林唯七ら十人の護送は、毛利藩上屋敷が麻布にあったのに、「八ツ前」(午前二時前)と意外に時間がかかった。当邸でも五人ずつ二つの小屋に分け、しかも最初のうちは、両小屋ともに一人一人の間に屏風を置いて隔離するというありさまだった。小屋の縁側には板塀を打ちつけ、庭の塀ともども二重囲いとし、戸口と塀の所には物見を開けて番人が見張るという物々しさ。まるで捕虜収容所なみである。さすがに十二月十八日からは、預りの面々の気色が悪くなったという理由で、仕切りの屏風は取り払われた。これでは人間的なコミュニケーションが成り立つはずはない。したがってこの預り屋敷では、浪士たちの対話はまったく記録されていないのである(『府中侯留書』)。  岡崎藩水野監物邸では、扱いはもっと徹底していた。水野家上屋敷は芝口にあり、最初の夜、神崎与五郎ら九人の預り人には、「綸子《りんず》・絹等の夜具、絹蒲団枕共に一つずつ」提供したとある(『水野家御預り記録』)。これはよい。ところが十二月二十二日に三田の中屋敷に身柄が移されたときから、「寒気強く候にて火鉢銘々これを出だす。臥具をも増すべく有り申し候えども、その義に及ばざる由にて初めの儘にて罷り在り」ということになった。三田屋敷の警戒ぶりは異常であった。役人が昼夜となく屋敷の内外を巡回する。出入りの商人は台所まで入れず、門番所で用件を済ます。三田屋敷以外の仲間《ちゆうげん》は合札なしでは通さない。そして、屋敷の玄関から竹垣を二重に張りめぐらし、「九人の輩《やから》差し置き候庭の内へも竹垣これを詰む」(『浅野様御家来九人御預り一件』)。  思わず失笑させられるのは、八人には料理のとき煎茶しか出さなかったが、神崎与五郎にだけは酒を飲ませたと記していることである。与五郎は表門突入のとき、屋根から転落して打身をしているから(実際には右腕が折れていた——後述)、その養生のためとされている。痛みがひどくて唸っていて、いまにも噛みつきそうな顔つきだったにちがいない。藩士たちが|びび《ヽヽ》っても無理はなかった。  それにしても、人を索然とさせるのは、いつされたかはわからないが、後世、『水野氏|丕揚《はいよう》録』と題した岡崎藩の記録の明白な改竄《かいざん》文書である。これは右にふれた『九人御預り一件』・『水野御預り記録』とはまるで筆致が違っている。そうさせたのは事件落着後の世論の動向である。「赤穂烈士《ヽヽヽヽ》九人御当家御預リノ時、高隆公(水野忠之)思召を以テ尋常ノ御預リ人ト違ヒ、御取扱ヒヨカリシ事世評アリシ程ノ事ナリ」——なんで「九人の輩」が「赤穂烈士九人」になるんや(!?)。なぜ「烈士」を庭の片隅に押し籠めて竹垣で隔離するのだ(!?)。この岡崎藩といい、前の長府藩といい、家中は赤穂浪士たちを人間集団というより、危険な爆発物のようにおそるおそる取り扱っている。考えてみれば、太平久しい元禄の世に異様な風体で身体を血まみれにした一団の姿を眼の前にして、相手をとても同じ人種とは感じられなかったというのもわからぬではない。  それだからこそ、岡崎藩は一件落着後の赤穂「義士」の英雄化に動揺したのである。お預りの期間、いかに九人を好遇したかというふうに自藩の記録を改竄しなければならない。『水野氏丕揚録』は、前記史料とは別に、『浅野忠臣聞書』・『介石録』・『義人録』などを挙げている。つまり、みずから二次資料に依拠していることを認めているのである。それほど、赤穂浪士への処遇についての世間体を気にしていた。  「アル書ニノス。此時御預リ四家ノ優劣ヲ詠ゼシ歌アリ云、※[#歌記号、unicode303d]細川ノ水野ナガレノ清ケレドタダ大甲斐《たいかい》ノ隠岐ゾ濁レル」——落首の絵解きをしてもあまり芸がないが、細川家も水野家(自藩)も評判がよいが、ただ大海《たいかい》の沖——毛利家の甲斐《ヽヽ》守と久松松平家の隠岐《ヽヽ》守の評判が悪かったという大意である。こうした落首はもうだいぶ世に出回っていた。『浅吉一乱記』には、すでに「松平隠岐守殿、初めの間少しおろそかなる致し方」であったのをあてこすった一首あり。※[#歌記号、unicode303d]細川の流れの末は清けれどただ大海《たいかい》の隠岐ぞうらめし。——別に水野家が言及されているわけではない。だからといって、水野家が賞められているということにもならない。ひょっとしたら、『水野氏丕揚録』の落首のオリジナルは右の一首だったかもしれないのである。  ◆討入りのデテール[#「討入りのデテール」は太字]  堀内伝右衛門は、日増しにお預りの十七人衆とうちとけていった。その人格的な魅力にひかれて、大石内蔵助・原惣右衛門・吉田忠左衛門・堀部弥兵衛などの年配者たちと話が合ったのである。それぞれに風格があり、談話には雅致があるが、順次紹介するという具合にはゆかない。また、『堀内伝右衛門筆記』は、かならずしも体系的に記述されているわけではない。だから、その中から、吉良邸討入りに関する細目だけを拾い出してみることにしよう。  というのは、赤穂一党には討入りに成功して引き揚げた後、いわゆるディブリーフィング(戦況総括)をする機会が一度もなかったからである。泉岳寺では長い行軍の後のみじかい休息とわずかな食事・仮眠の時間しかなく、仙石邸では訊問の応答に当ったのは大石・吉田の両人であった。その両人とも、戦闘の全局を把握してはいなかった。その後、四十六士は四大名家に預けられ、二度と再会することはなかったから、後世に残っている戦闘は、けっきょく局地戦の視野の総和なのである。伝右衛門の聞書は、それらのうちいくつもの決定的に重要な情報を伝えている。  まず討入り一党が使った武具の話。大小の刀はどれも、すべての柄《つか》は平打ちの木綿《もめん》糸で巻き、切柄《きりづか》の心持ちで、たいへん手になじむ。「切柄」というのは刀の柄をみじかく切り、実戦用に仕立てたものである。槍もやはり柄《え》を九尺(二メートル七十二センチ強)に切り詰めていた。これは当夜の作戦の要項の一つだったのである。たくみな戦法であった。 [#ここから1字下げ]  何《いず》れも咄し申され候は、相手これ無く候へば手合せ申さざる者多く候。その上、逃げ走り候者は其儘捨て置き、手向ひいたし候はば打ち捨て候へと内蔵助申され候由。それゆえ刀・脇指に|のり《ヽヽ》(血糊)付き居り申し候は少く、槍は大かた|のり《ヽヽ》付き居り申し候。その夜の仕合せ・不仕合せにて手合せ申さざる者もこれ有りと咄し申され候。 (だれもが話されたことには、相手になる者がいなかったので、手合せしなかった味方も多くございました。その上、遁走する者は放置して、抵抗する相手だけを倒せという内蔵助の下知があったとのこと。だから刀や脇差には血糊が少なく、もっぱら槍に付き申した。当夜のまったくの成り行きで、斬り結ぶ相手が出てこなかったという場合もござった、と話されたことでした。) [#ここで字下げ終わり]  富森助右衛門の談話はこれを補強する。吉良邸は毎晩かわるがわる見張っていたが、平長屋、竹の腰板、中塗りぐらいの壁なので、灯火がよく透けて見え、大体の様子は外部からもうかがわれた。これなら槍は九尺ぐらいに仕立てるのが適当だろうと判断したというのである。  ここで一つエピソード的に紹介しておくと、大石内蔵助は極端な|寒がり《ヽヽヽ》であった。細川邸に預けられてからも、寝るときは頭から茶縮緬《ちやぢりめん》のくくり頭巾をかぶり、夜具の間に火燵《こたつ》蒲団を引きかぶって眠るというありさまであった。まだ四十四歳だったが、そういう体質だったらしい。それが十二月十四日の午前四時から十二月十五日の午前二時までのまる二十二時間、極寒のなかを不眠不休でがんばったのである。堀内伝右衛門も大いに気を揉んだ。それがこの人物の人徳である。しかし、掟として内蔵助だけに特別待遇をするわけにはゆかない。細川家としてはどうすることもできない。右の頭巾も個人的寸志として差し入れるほかはなかった。  さて、そろそろここで、ずっと懸案にしてきた「寺坂問題」に決着をつけねばなるまい。寺坂吉右衛門は、いつ、どこで、なぜ姿を消してしまったかである。仙石伯耆守邸での公式の詮議の席上、伯耆守は、当然のことながら届け出られた名簿から人数が一人足りなくなっていることを訊問している。そのとき吉田忠左衛門は、泰然自若として、自分の配下の足軽寺坂吉右衛門と申す者が、吉良邸門前までは一緒に居りましたが、以後邸内ではだれも見掛けておりませぬ、討入ったのは四十六人でございます、と明快に応答している。伯耆守もあえて深くは追及しなかった。大目付の職責は、幕府当局のもとに出頭した員数の確認であり、管理責任下に入る以前に浪士の一人が逐電しようが逃亡しようが関知するところではなかったのである。  その後、堀内伝右衛門は吉田忠左衛門の依頼によって、聟の伊藤十郎太夫という人物をたずね、邸内での近況を伝えた。そこで寺坂の話題が出た。寺坂は無事に国許に下り、私(十郎太夫)の所へも立ち寄りましたというのである。伝右衛門が邸に戻って忠左衛門にこの話をすると、相手はたちまち不快の表情を浮かべた。 [#ここから1字下げ]  此者は不届き者にて候。|重ねては名を仰せ下されまじく候《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。吉右衛門事もその夜一列一同に参り候て、欠落《かけおち》致し候由。かねていづれも申され候。然れども、恙《つつが》なく仇を討ち申されたる儀知らせの使など申し付けられ候など色々申し候へども、右の通り申され候事不審に存じ候。実の欠落かとも存じ候。 (この男は不届き者でござる。|拙者の前では二度とその名前を口になさらないでいただきたい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。吉右衛門は、当夜一同と一緒におりましたが途中で逐電したといずれの衆も申しておられる。それを今更その身につつがなく、仇討成就の知らせに使われなどという話が伝わっているなど甚だ不審。事実、逐電したのではないかと思っておりまする。) [#ここで字下げ終わり]  伝右衛門は口をつぐんだ。何か、これ以上聞いてはいけないことがあると感じたのであろう。忠左衛門が表明した不快感にはどこか不自然なところがあった。寺坂吉右衛門は吉田忠左衛門組の足軽だったから、この男がぎりぎりの場所で逃亡したら、たしかに忠左衛門の不面目になる。それゆえの立腹とも取れる。しかし、どうやらそれだけではなさそうだ。何かが隠匿されている、と伝右衛門は直感したのである。  またもう一つ、ここに富森助右衛門が元禄十六年(一七〇三)正月二十六日、伝右衛門に書き残した『富森助右衛門筆記』(磯貝十郎左衛門加筆、前引)という文書がある。吉良邸討入りから撤退までの経過を要領よく概括しているが、そのうち、いま問題にすべきは次の一節だけでよい。「裏門の内へ惣人数呼び集め、名書《ながき》の帳面を以て|人別に呼び出しに相改め《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、討ち入り候人数|相違無くあつめ《ヽヽヽヽヽヽヽ》、裏門より退出つかまつり候。」(裏門の内側へ総員を呼び集め、名前を記した帳面にもとづいて、|一人ずつ呼び出して確認し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、討ち入った人数を|間違いなく集合させ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、裏門から退出しました。)  これを第一次点呼としよう。この点呼は、行方不明者はいないか(たとえば重傷を負って動けなくなり、邸内のどこかに取り残されていないか)、全員そろって撤退できるかを確認する戦闘行為の要件であった。その後、泉岳寺でなされた第二次点呼——寺社奉行への届け出のための手続き——とは性質が違うのである。ともかく、吉良邸裏門の第一次点呼のときには、寺坂吉右衛門は|確実に《ヽヽヽ》その場に居たのである。富森助右衛門は、泉岳寺への引揚げ行列の途中で、吉田忠左衛門とともに一行から別れて仙石伯耆守邸へ向かった。だから、泉岳寺での第二次点呼のとき寺坂がいなくなっていたという事実(前引『白明話録』)、あるいはむしろ浪士一同がソウイエバ寺坂ガイナクナッテイルと気がついた事実は二人とも知らなかったはずである。だからというべきか、『富森助右衛門筆記』は、その点にはまったくふれていない。だが吉田と富森とは、たまたま同じ細川邸にお預けの身柄であった。二人そろって内情を知らなかったということがあるだろうか。二人そろって、堀内伝右衛門にさえ何かを隠蔽していたと考える方が自然なのである。  寺坂吉右衛門が一行から離脱するチャンスは、本所吉良邸から高輪泉岳寺までの行程にしかなかった。というより、この行軍にはほぼ四時間はかかっているから、いくらでもチャンスがあったと見るべきだろう。明らかに幹部の密命を受けて姿を消したのである。元禄十五年(一七〇二)十二月二十四日付の大石内蔵助・原惣右衛門・小野寺十内連名の寺井玄溪——赤穂藩医官——宛ての書簡には、寺坂は「十四日暁までこれ有り候処、かの屋敷(仙石邸)へは見来たらざる由、(身分が)軽き者の儀ゆえ、是非に及ばず候」と記している。しかし同書中の内蔵助自筆の四十七士のリストでは、寺坂吉右衛門の名前は抹殺されていない。つまりこれは、以後「寺坂問題」には言及してくれるな、というメッセージなのである(『江赤見聞記』巻五)。  寺坂吉右衛門はいかなる密命を与えられたのだろうか。瑤泉院のもとに『大石良雄金銀請払帳』を届けたのも寺坂だったという説がある。真相はわからない。この事件のあちこちには、いくつもこうした謎の部分がある。『忠臣蔵』小説の推理と想像の源泉はもっぱらこの領域にある。そして最初からことわっているように、それはこの一冊の守備範囲ではない。  細川越中守邸では、このように和気藹々であった。好遇が過ぎて、ついに大石内蔵助らが御馳走責めに悲鳴をあげる始末であった。「結構なる御料理、数日|頂戴《ちようだい》つかまつり候。ことの外つかへ申し候。此間の黒飯《くろめし》・鰯《いわし》こいしく成り申し候。何とぞ御料理かろく仰せ付けられ下され候様にと申され候」——こんな上等な食事はもう御勘弁願いたい。浪人時代の玄米食とイワシの煮付けがいっそなつかしく存ずる。何とぞもっと軽い食事を。  年配者たちはそうだったが、一方、細川邸にはヤンガー・ジェネレーションもお預けの身になっていた。富森助右衛門(三十四歳)・大石瀬左衛門(二十七歳)・磯貝十郎左衛門(二十五歳)・矢田五郎右衛門(二十九歳)といった面々である。体内のエネルギーを持て余していた。元禄十六年二月三日の夜「四ツ過」(午後十時頃)のことである。いずれ切腹の沙汰が下るということは全員が承知していた。何やら騒がしいので、伝右衛門が呼ばれていったところ、若い衆がはしゃいでいた。「やがて埒《らち》明きべく(切腹と定まるだろう)候。御暇乞ひに芸づくしをお目に掛け申し候とて、御番衆の見申さぬ様に、枕屏風《まくらびようぶ》の陰《かげ》にて、堺町の踊り狂言の真似をつかまつられ、そろゝゝ騒ぎ申さる」。——堺町というのは、当時、歌舞伎の芝居小屋が集中していた一画である。この面々は、一世一代、狂言物真似づくしを演じて見せたわけだ。一種の躁状態であった。この気持はじつによくわかる。伝右衛門はただつきあうしかなかった。  同じ座敷には、奥田孫太夫(五十七歳)と潮田又之丞(三十五歳)が処置なしという顔つきで横になり、伝右衛門には、若い衆のすることだし、いずれ発散するだろうから御勘弁下されいと挨拶した。又之丞は、明日は内蔵助に言いつけて手錠でも掛けてもらうほかはありませんなと苦笑した。伝右衛門はほどほどに切り上げるようにといって退座した。後になって、あのときもっと暇乞いにつきあっておけばよかったと悔やんでいる。というのは、この日もまだ、赤穂浪士の処分はせいぜい遠島ぐらいだろうと楽天的に考えていたのである。堀内伝右衛門はまったくの好人物であった。  久松松平家の屋敷では、雰囲気はだいぶ違っていた。それでも、波賀清太夫という人物の個性が独特に発揮されて、価値のある聞書を取っている。清太夫は、堀内伝右衛門とは違って、対話者をふんわりと包み込むというタイプではなかった。しかし持ち前の律儀さと効率性で、みごとに預り人から話を引き出しているのである。清太夫は能吏である。人それぞれに、なるほど、こういうやり方もあるのかと感心させられる。松平隠岐守邸でも、預り人十人との間のコミュニケーションは成立していたのである。  同邸では、十二月十六日の夜からお預り十人の口書を取った。一人ずつから事情聴取をしたらしい。どの預り屋敷もそうだが、表門組と裏門組のメンバーはばらばらである。討入り一党同士ですら、だれひとり戦闘の全局は知らないのである。聞書作成は、「双方」(少なくとも最低二人)の口述が符節を合わせた場合のみを記録に採用した。こうしてできたのが、『松平隠岐守殿ぇ御預け一件』のうち、『吉良上野介殿浅野内匠頭殿一条聞書』と題された一まとまりの文書である。  一つ一つの細目記載には、何者かの主たる供述を、貝賀弥左衛門の口伝でウラを取るという方式が用いられている。筆者はひそかにこの何者かを大高源五に擬している。堀部安兵衛だったかもしれない。だが安兵衛はずっと第一線の実戦要員であった。いずれにせよ波賀清太夫は、一方的な言い方に耳を傾けるような人物ではない。だからこそ、この『聞書』にはかなり信憑性が期待できるのである。 [#ここから1字下げ]  上野介屋敷の絵図、新古二枚才覚致し、この絵図を以て内談、夜討ちの手組手配り相定め申し候。貝賀口伝に、この屋敷の絵図、十二月八日の夜の本所店に出会の時、又之丞才覚来り候旨となり。 (吉良邸の絵図は、屋敷替えの前の古い図面と改築後のものをとにかく入手し、それをもとに密談し、夜討ちの手配りの基本計画を練った。貝賀弥左衛門の口述では、十二月八日の本所会同のとき、潮田又之丞がなんらかの手蔓で手に入れてきたものだったそうである。)  上野介屋敷内、用心堅固の由承り候に付き、その節まで一味の者毛利小平太と申す者忍びに入り、堅固にこれ無き趣き、長屋前数に至るまでよくよく見届け申し候。  自評《ヽヽ》、この毛利小平太、これほどまでにて退き候事不審(下略)。 [#ここで字下げ終わり]  潮田又之丞の身柄は細川邸にあり、よしんば久松松平家にお預けになっていたとしても、絵図面入手をどう「才覚」したかは口が裂けても言わなかったであろう。赤穂から大江戸に急遽あつまってきた四十七人が孤立無援で討入りに成功できたわけではない。たしかに一党はイナカモノにそんなことができるはずはないと考えていた相手の虚を物の見事に衝《つ》いた。しかし、その周辺に有形無形の協力者・情報提供者がいなくては、こんな壮挙はおよそ不可能だったろう。討入り直前に逃亡したとされる毛利小平太の場合も、もっと柔軟に考えるべきである。「自評」としてその行動を不審がっている筆録者は不明であるが、やはりこの際、波賀清太夫と考えておきたい。たしかに小平太の行動は「不審」なのである。だが、この牒報がなかったら、吉良邸の長屋の内向きには竹垣などの防備がなく、したがって槍を九尺に切り詰めるのが適切だという戦術判断はできなかったであろう。  吉良邸討入り一党は、明確この上もない目的合理性をめざした戦闘機能集団《ヽヽヽヽヽヽ》であった。たんなる血盟団ではなかったのである。だからこそ、みごとな戦場合理主義を遂行したのである。その周囲に、ここまでは自分の能力をお役に立てますが、御一緒に切腹までは致しませんという人士がいても、別に差しつかえなかった。大石内蔵助はそういう個々の人材の使い途を心得ていたと思われる。寺坂吉右衛門の場合もそうだったろう。同志のすべてが武闘に秀でていたわけではない。だから一方では、不破数右衛門のようなかなり暗い人物をも拾い、現場の斬り合いではすさまじい活躍をさせた。考え直さなくてはならないのは、関係者たちをすべて「義士」か「不義士」かの二分法で発想する、じつにくだらない先入観の方なのである。  『堀内伝右衛門覚書』との重複記事は避けて、この『聞書』のきわめて生々しい場面を再現してみよう。戦場リアリズムは、いつも勇壮活溌とはかぎらない。かなりユーモラスな場面も生じるのである。主役は、一党の最長老、当年七十六歳の堀部弥兵衛であった。この老人、意気は軒昴、なかなか口も達者であったが、いかにせん身体がいうことをきかなかった。表門組は長屋の屋根を乗り越えて、邸内に飛び降りた。 [#ここから1字下げ]  一番乗大高源五・間十次郎、二番吉田沢右衛門、三番岡嶋八十右衛門かと存じ候。そのほか一時に飛び下り、透間《すきま》も無く御座候。|堀部弥兵衛極老ゆえ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|飛び下りがたく相見え候に付き《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|大高源五長刀差し置き《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|軒より抱き下ろし申し候《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。原惣右衛門、足をくぢき、神崎与五郎、雪解けにすべり落ち、右の腕を折り候へども、いづれも事ともつかまつらず働き候。 [#ここで字下げ終わり]  現代語訳の必要はあるまい。堀部弥兵衛はけっこう世話を焼かせた。けっきょくあてがわれたのは、表門の内側でぐるぐる巻きにされた門番の見張りであった。そしてこの不運な——あるいは無抵抗で助命された——門番が、数時間の後、吉良上野介の首級を見て、当人に間違いござらぬと証言し、大望成就が晴れて確かめられることになる。堀部弥兵衛の老いの一徹は、ここで大いに面目をほどこしたのである。吉良邸に討ち入った四十七士は、このようにして老若・強弱を問わず、その持ち場持ち場で与えられた役割を果した。  このようにして、吉良邸討入りの実況は、局地戦闘の断片を綜合してゆくとその全体像がしだいに見えてくる。そのことは主として、細川邸の堀内伝右衛門、久松松平邸の波賀清太夫が、人間のタイプこそちがえ、この事件の真実を知るために異常な熱意を示したからである。毛利甲斐守邸と水野監物邸とからはこういう肉声は伝わってこない。それだけの人材がいなかったからである。  ◆幕府上層部の苦慮[#「幕府上層部の苦慮」は太字]  赤穂浪士四十六名が四つの藩邸でそれぞれに処遇されていたちょうどその時期、元禄十五年(一七〇二)の歳末ずっと、幕府上層部は事態をいかに収拾するかをめぐって大わらわであった。ふつうこの期間は、当局者・有識者たちの間で四十六士の助命論と処刑論とが渦巻いたかのようにいわれている。事実そうではあったのだろうが、多くの『忠臣蔵』史料が載せている儒学者諸派の論争は、すべて四十六士切腹の後のものである。したがって、それらの議論はいまは無意味である。  それよりも、柳沢吉保を当惑させたのは、赤穂浪士に同情票が予想以上に集まるという幕府内世論の動向であった。吉保の権勢に押されっぱなしであった老中衆はこういう際まったく無力であった。そこでやむなく、元禄十五年十二月二十三日、評定所一座が老中列座のもとで開かれた。評定所は明暦の大火以後、伝奏屋敷もある呉服橋門内の一画にあった。もっぱら公事訴訟にあずかる最高司法機関であり、構成メンバーは老中・寺社奉行・大目付・町奉行・勘定奉行であったが、寛文の頃からしだいに簡略化され、式日は毎月四日・十二日・二十二日となり、老中一人ずつ出座という慣習になっていた(「評定所始の事」、『徳川禁令考』後集第一)。だが、この日ばかりは空気が変っていた。同日付の『評定所一座存寄書』によれば、「老中|御列座《ヽヽヽ》」とあり、しかも浅野浪士の御仕置きの儀について、老中以外の評定所一座から一同の「存じ寄り書」を提出させるという主旨の評議だったのである。  念のために、同文書に記されている人名を紹介しておこう。すでに読者になじみのある人士の名前も見えているからである。——寺社奉行永井伊賀守・同阿部飛騨守・同本多弾正少弼、大目付|仙石伯耆守《ヽヽヽヽヽ》・安藤筑後守・近藤備中守・折井淡路守、町奉行松前伊豆守・保田越前守・丹羽遠江守、勘定奉行|荻原近江守《ヽヽヽヽヽ》(重|英《ママ》)・久貝因幡守・戸川備前守・中山出雲守。  さて、この『存寄書』の内容は、いよいよもって老中衆の頭を抱えさせるような代物であった。長いものなので全文引用というわけにはゆかない。要点だけに整理してみる。ひとくちにいうなら、それは吉良・上杉両家に対してきわめて厳しく、浅野浪士に対してすこぶる同情的であった。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] (一) 吉良左兵衛の手ぬかりは申し訳が立ちますまい。そのみぎりせめて自決していればよかったのに、その儀もなくこのままでは捨て置けませぬから、切腹を申し付けるべきかと存じます。 (二) 吉良上野介の家来共、手合わせをしなかった者はすべて斬罪。多少なりとも闘って手傷を負った者は親類に引き取らせる。小者・仲間《ちゆうげん》のやからはすべて追放。——という処置を取られるのが適当かと存じます。 (三) 上杉弾正大弼(綱憲)ならびにその子民部大輔(吉憲)は、赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げるのを何もせずに傍観、言語道断につき、いかようにも御仕置仰せつけられ、もちろん領地を召上げられてもお構いないことかと存じます。 (四) 内匠頭家来共の仕方につきましては、評議は二分致しました。亡主の志を継いで一命を捨て、上野介宅へ討ち入ったが|真実の忠義《ヽヽヽヽヽ》なりや否やをめぐる一点についてでございます。御条目——天和三年(一六八三)制定の『武家諸法度』——の第一条には、「文武忠孝を励し、礼儀を正しくすべき事」と明記してございます。赤穂浪士の行為はそれに的中していると申せましょう。なるほど同御条目の第五条には、「徒党を結び、誓約を成す」儀は、停止《ちようじ》(禁制)されております。しかし、内匠頭家来共にもし徒党の意図あったならば、赤穂城明渡しのみぎりにそのような振舞いもありましたろうに、違背はいささかもございませんでした。吉良邸討入りにあたっては、全員一列ならでは本意遂げがたく、やむを得ず大勢が申し合わせたことでございます。これもって|徒党とは申しかねる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のでありますまいか。 (五) このような事件がまた起こるかも知れませぬが、人々の心入れ次第でございますから、その節その節、致し方の是非をもって御裁定あるべきかと存じます。その点では一同の意見は一致しております。内頭匠家来共、まずこのたびは、お預けのまま差し置かれ、後年に至って落着《らくちやく》を仰せ付けられるべきかと存じます。以上。 [#ここで字下げ終わり]  評定所一座までがこのような意向を表明したのである。こういう情報はすぐに諸大名筋に流れるものである。現に細川越中守綱利などは、助命嘆願の訴えを再三にわたって老中衆に提出している(『熊本細川家譜』)。しかし不思議なことには、広島本藩がこの機に乗じて赤穂浪士の助命に運動したという記録は残っていない。上杉家は戦々恐々であった。以前から病弱だった藩主綱憲の病状はいよいよ亢進した。ちなみに吉良左兵衛は、十二月十六日の夜のうちに、上杉邸に引き取られていた。「上野介様御首、何卒向うより返し申す処の御相談の御使」というのが口実だった。上野介の首級は、当方ではもう無用ということで、泉岳寺から無事に届けられた。  ひどく楽観的な気分になっていたのは、かえって細川邸だった。一部には、「十七人衆万一御赦免も候はば、刀・脇差損じ居り申し候も御座候間、残らず拝領せられ候事もこれ有るべく候。残る御三人様(久松松平、毛利、水野——注)もその御用意これある様相聞え候」という見方さえなされていた。それにしても、『徳川実紀』の「付録」に記されている綱吉の言葉は、まったくの気まぐれ、情緒不安定であったとしか思えない。「その忠誠義烈のさま、叔世《しゆくせい》にはめづらしき程のことにて、彼等そのまま助け置きたくは思へども、かへりては政道に於いて腹切らせねばならぬ定めなり」と語ったと伝えられる。いい気なものだとしか言いようがない。すぐかっと逆上するかと思うと、またすぐに涙もろくなるといった気性だったのである。  もっと微妙な立場にいたのが柳沢吉保であった。もともと吉保には、昨年三月十四日の刃傷当日、「片落ち」の批判を受けながら、内匠頭を強引に切腹させてしまったいきさつがある。『柳沢家秘蔵実記』によると、浅野浪士の処分方針をめぐって、老中阿部豊後守、土屋相模守、小笠原佐渡守、稲葉丹後守の評議がなされ、その席では、浪士たちの行為は「すべて夜盗の輩の致し方に付き、その御取り捌《さば》きにて然《しか》るべしとて、四十六の輩|討首《ヽヽ》に仰せ付けらるべき御沙汰に相極り候」(巻上七)と一決した。要するに全員斬首してしまえというのである。この評議が前記した評定所一座(十二月二十三日)に先立って開かれたことはたしかである。事件の性質上、こういう重大な議題は評定所にかけられる慣行であった。ところがすでに見たとおり、諸奉行、大目付の意見は老中の判定をくつがえす体《てい》のものであった。柳沢吉保にはまた頭痛の種だった。もっとも『柳沢家秘蔵実記』には評定所一座のことなど一言も書いていない。ただ「甚だ嘆かしく思し召され候」とあるだけである。何しろこんな事件にはおよそ先例がなかったのである。  そこでやむなく、吉保は家中の儒者荻生徂徠に相談した。ことわっておくが、徂徠は後世たいへん高名な学者として知られるようになるけれども、この年はまだ三十八歳、吉保にはその学識を重宝がられていたが、世上ではさほどの評判も立っていなかった時代である。しかし、吉保に対する即座の回答はさすがに水際だっていた。 [#ここから1字下げ]  忠孝を心懸けにて致し候者、盗賊と相成り候例に候はば、不義不忠の心懸けの者の御取捌きは如何にして然るべきや。(中略)我朝当時の御例を以て御取捌きこれ有り、切腹《ヽヽ》に仰せ付けられ候はば、彼輩《かのやから》の宿意も相立ち、如何ばかり世上の示しに相成り申すべきや。 (忠孝をなそうと心がけて行動を起こした人士をもしただの盗賊同然に処罰する|ためし《ヽヽヽ》を作りましたなら、不義不忠の心がけの者のお取り捌きはいかが相なりましょうや。……わが国現在の判例として取り捌かれ、これを処断し、切腹《ヽヽ》に仰せ付けられましたなら、かの人士の宿意も相立ち、どれほど世上の示しになることでございましょうか。) [#ここで字下げ終わり]  なるほどそうか、と吉保は膝を打った。荻生徂徠がこの前後にしたためた『徂徠擬律書』その他の整然たる法理論は本書の終段で取り上げるが、右の一文はそれとはかなり色合いを異にしている。が、ともかくここでは『柳沢家秘蔵実記』の記載にしたがう。吉保は、翌朝いつもより半刻早目に登城し、綱吉と面談して案件を伝え、綱吉も「甚だ御感悦遊ばされ、|御評議にわかに相変じ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」たというのである。正確な日付まではわからないが、この根回しは歳末のあわただしいさなかにひそかに進められたものであろう。年が改まって元禄十六年(一七〇三)になってからも、水面下の折衝は続いた。二月一日、日光門主公弁法親王が年賀登城し、その機会に綱吉は法親王に諮問した。『徳川実紀付録』は、これも『続明良洪範』からの引用として、このときの公弁法親王の助言が最終決定になったとしている。しかし、後で検討するように、その論理はまったく徂徠の『擬律書』のものであり、柳沢を通じて綱吉に吹き込まれたことは間違いない。  裁定が下るのは近いだろうという予想は、たとえば細川邸では、浪士たちの方が察知するのは早かった。もしかしたら秘密の連絡ルートがあったかもしれない。二月二日に大石内蔵助は細井広沢宛に、「もはや近々罪品(罪刑)仰せ付けらるべしと相待ち罷り在り候」と書き送っている。細井広沢は一時柳沢家に仕えたこともある儒者である。その二月二日の夜、大石内蔵助・原惣右衛門・磯貝十郎左衛門の三人がいつになく盃を重ねていた。吉田忠左衛門・間瀬久太夫・堀部弥兵衛・小野寺十内らは下戸で、甘みぞれを猪口《ちよこ》でちびちびやっていた。堀内伝右衛門が姿を見せると、ちょうど良いところへ来られたと座敷内へ呼び込まれ、何度も盃をさされた。いやもうすっかり酩酊これで許し給えといって逃れてきたが、後にして思えばあれは暇乞いの心だったのだろうと伝右衛門は述懐している。  世上の評判もよいことからてっきり赦免と確信し、よもや切腹などとは夢にも思わなかった伝右衛門は、正月中は祝い日が多く、二月一日には日光鏡開きなど例年の公儀の祝礼に忙殺され、十七人衆のことは人まかせにしていたと悔やむのである。そういえば、前述した若い面々の芸尽しも二月三日の深夜であった。  二月四日の朝、屋敷の空気が変った。座敷には花が飾られた。ここ芝白金の中屋敷に藩主が来邸するという沙汰が前夜からあり、いずれも衣類を改めていた。それでも伝右衛門にはどこか無頓着なところがあり、それらが何を意味するかわからず、日程どおり役目を代って帰宅した。出がけに磯貝十郎左衛門と出会い、伝右衛門殿とはつねに心安くさせていただいておりました、「とてもの事にこの上ながら、お詰めのうちに何も埒明き申し候様にと願ひ申す事に御座候」といわれた。切腹が済むまで当邸に詰めていて下されよ、という懇願である。それでも伝右衛門にはぴんと来なかった。ようやく気がついたのは帰路の道すがら同僚と行き会い、芝邸におっつけ上使が到着すると知らされたときであった。すぐに馬を飛ばして取って返し、とにかく十七人の最後の食事に間に合った。人々の顔色に変化はなく、すべてを了解している面持ちで、ただ早く決着をつけたいという表情がにじんでいたという。上使を迎える礼装の着替えを手伝って、伝右衛門は磯貝十郎左衛門・富森助右衛門の袴の腰板を当てた。  ◆四十六士切腹[#「四十六士切腹」は太字]  四つのお預り屋敷には幕府からそれぞれに上使が赴き、裁決を言い渡し、四十六士には即座に切腹が命じられた。この裁決の文面、いわば判決文はもちろん各邸同文である。どの書にも引かれているが、やはり型通り、この一冊でも掲げておくのが順序だろう。 [#ここから1字下げ]    申渡の覚 [#地付き]浅野内匠頭家来     [#地付き]大石内蔵助    [#地付き]其外共  浅野内匠頭儀、勅使御馳走の御用仰せ付け置かれ候処、時節柄、殿中を憚らず不届きの仕形に付きて御仕置仰せ付けられ、吉良上野介儀は御構ひ無く差し置かれ候処、主人の讐《あだ》を報じ候と申し立て、内匠頭家来四十六人|徒党致し《ヽヽヽヽ》、上野介宅え押し込み、飛道具など持参、上野介を討ち取り候始末、公儀を恐れざる段、|重々不届き《ヽヽヽヽヽ》に候。これに依りて切腹申し付くる者なり。 [#ここで字下げ終わり]  こうした種類の文言は決まり文句であるから、特に現代語にすることはあるまい。被告人を切腹に処するという主文が最後にあり、副文(判決事由)がその前に述べられるという構成になっている。たしかに、評定所一座は、浅野内匠頭に時節柄場所柄をわきまえぬ行為があったのでこれを処罰し、一方の吉良上野介はお咎めなしとしたのは御公儀の裁定である、|それにもかかわらず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、主君の讐を報じると言い立て、徒党して飛道具など持参し、上野介を討ち取ったことは「重々不届き」である、とその判決事由を述べてはいる。が、当初から量刑は「重々不届き」の一言で決まっていたのである。  各邸にはそれぞれ、幕府から目付一人と使番一人ずつが派遣された。細川邸に入来したのは、赤穂城明渡し以来いろいろ因縁が深かったあの荒木十左衛門であった。処分言い渡しの後、荒木は大石に近づき、何ごとかを小声で伝えたようであったが、襖一重をへだてて幕府の言い渡しを聞いていた伝右衛門にも、その内談はよく聞こえなかった。しかし、その後、堀部弥兵衛そのほかの「老人衆、そのまま内蔵助側に寄り申され候えば、訳は聞え申さず候えども、内蔵助落涙の体にて、段々さてさて有り難きことと申され候は聞え申し候」と記している一情景からも事情は明らかである。荒木十左衛門は、この日まず、評定所で吉良左兵衛の領地が召し上げられ、当人は他藩お預けの身の上になったことを大石に告げたのであろう。荒木としては、それが最後の最後に果せたせめてもの義理であった。  それからしばらく遺言やら書置きやらの談笑のひとときがあり、ついに切腹の刻限になった。人々は切腹の仕方について、稽古をしても無駄なこと、ただ首をさしのべ討たれるまでよなどと話をしていたが、やがておもむろに挨拶して、切腹の場へ出て行った。伝右衛門は介錯人でも見届け役でもなかったから、その現場に居合わせなかった。後から、大石内蔵助を最初に十七人が死地に趣く模様を伝え聞いた。それでよかったのである。切腹は酉《とり》の上刻(午後六時頃)には終了。死骸は夜のうちに泉岳寺に送られた。遺品の整理を済ませた伝右衛門は、急に激しい疲労を感じた。夜食が出ても食欲がなく、やっと湯漬けが咽喉をとおった程度であった。九ツ時(午前零時)をまわって家に帰ってからも、一晩中眠れなかった。  『堀内伝右衛門覚書』は私記である。公的な記録ではない。当家には後者としては『細川家御預始末記』がある。他の三家に『久松家赤穂御預人始末記』、『水野家御預記録』、『長府藩毛利氏預り記録』などがあるのと同様である。それらは原則として、幕府裁定が出るまでの期間は預り人の厳重な監視と管理、裁定が下された後は、切腹刑がいかに遅滞なく厳密に執行されたかを記録することを旨としている。人間感情が介入する余地はないのである。切腹の始終までが事務文書的に記述されている。たとえば、「介錯して印《しるし》(首級)上げ御目に懸ける。若《も》し少しにても懸かりたるをば切り放す」(『府中侯留書』)といった具合である。「懸かる」とはいやな言葉である。首が一刀で切断できず、つながっている状態をさすという。切腹者には介錯人の手腕、胆力の度合で運不運がつきまとった。  切腹はなるほど死罪にはちがいないが、武士としての名誉刑である。ましてや、十七人、十人、十人、九人とまとまって一人ずつ次々と首の座に直る光景には、ひとを粛殺するものがある。どの藩にもあれこれ記録があるが、いまここに誰の場合ああだったこうだったと書くには忍びない。  久松松平藩の『波賀清太夫覚書』は、私記ではあるが、公文書よりも詳細をきわめている。その律儀な性格がそうさせたといえよう。清太夫は『覚書』には、預り人との個人的対話を記録していない。しかし、堀部安兵衛と大石主税とは特に気が合っていたらしい。その清太夫に大石主税の介錯が命じられたのである。『波賀清太夫覚書』の記録魔的な四角四面さの文中には、時折、さきに上杉一件に見たような人間感情が宿るが、次にそれが現われるのは、切腹当日の場面である。 [#ここから1字下げ]  大石主税殿|御出《おんいで》候えと云ふ。主税、畏《かしこま》ると云ひて、堀部安兵衛、主税へ向ひて、私も只今参るべしと、互ににつこと微笑し立ちて、広間正面にて諸|物頭《ものがしら》中へ中座し時宜《じぎ》これ有り。三浦(松山藩目付)に付きて右ふとんの上へ来たり、御検使の方角をチヨト目出し、其方に向きて座し、左へ面を向けて朝栄(清太夫)に目礼、日夜出入の故微笑す。 [#ここで字下げ終わり]  介錯の太刀を執る場に立っていながら、清太夫は、安兵衛と主税との間にふとほのめいた一種の同性愛にも似た深い交情を見て取った。世から滅びつつある武士の心情の残《のこ》んの花を感じた。そしてみずからも刀の一閃でそれに加わったと信じた。束の間の永遠であった。続く九人の切腹も滞りなく進み、やがて老若十体の|むくろ《ヽヽヽ》がやはり泉岳寺へ送り出されて行った。  ◆吉良左兵衛処分[#「吉良左兵衛処分」は太字]  じつはこの元禄十六年(一七〇三)二月四日のこと、赤穂浪士預り諸邸に切腹言渡しの上使が向かうのに先立って、吉良左兵衛は評定所に呼び出され、またもや大目付仙石伯耆守から、次のように言い渡されていた。 [#ここから1字下げ]  浅野内匠頭家来共、上野介を討ち候節、左兵衛仕方不届きに付、領地召し上げられ、諏訪安芸守え御預け仰せ付くる者なり。 [#ここで字下げ終わり]  この言渡し中の「不届」とは、吉良左兵衛が養父の首を取られながら、当人も家中もろくな働きをしなかったということだろう。いわゆる武道不行届きである。だが、この判決事由はいかにも酷である。家中の面々はいざ知らず、左兵衛はけなげだった。長刀を揮って斬りかかっている。相手がいかんせん豪の者すぎたのである。それこそ鎧袖一触《がいしゆういつしよく》で吹っとんだのも無理はなかった。しかし、幕府の処置は容赦なかった。  綱吉=柳沢政権は、今回はたくみに幕閣世論をあやつって政治的バランスを保った。一方では、おそらく上杉家に赤穂浪士を夜盗同然に処理するからこれ以上事を荒立てるなという恫喝、懐柔こもごもの言質を与えていた。そのためには、浪士助命論を押さえ込まなければならない。他方では、評定所一座の「存じ寄り書」に見られるように、相当強硬な反・上杉論があった。その主張の顔を立てるために、上杉家から入った養子である吉良左兵衛は絶好のスケープ・ゴートであった。そのことは最後でまた考える。  左兵衛の身柄は、評定所でただちに諏訪家側に引き渡された。信州高島藩諏訪安芸守高虎(三万石)にお預けの身となったわけである。とりあえず二月四日当日は、「暮れ前御屋敷へ恙《つつが》なく御供申し、表御居間を囲み御入れ置き、番人御付け置く」(『諏訪家御用状留帳』)という扱いになった。言葉遣いは丁重だが、これは重罪人なみの監視である。  そもそもこの時代、大名家の国許にお預けになるということは、代用監獄に幽閉されるにひとしかった。左兵衛は間もなく高島城に移送されるが、そこには城郭の一画に南丸が新たに設けられ、常時監視人が見張っていた。所遇は決してあたたかなものではなかった。それをいちばんよく示すのが、月代《さかやき》や髭《ひげ》が伸びるのを剃ってもよろしいかというお伺いであろう。回答は、「左兵衛様御事は、右両様に共、先《まず》は罷り成らざる|御格式に《ヽヽヽヽ》御座候」(『諏訪家御用状留帳』)というものであった。諏訪家に、左兵衛に対する特別な悪意があったとは思われない。「格式」(規定)がないからそれは許可できないという返事だったのである。そこが怖ろしいところなのである。  こんな境遇のなかで、人間、長生きができるはずはない。宝永三年(一七〇六)、吉良左兵衛は以前からしばしばあった発熱と身体の震えの症状が悪化し、やがて尿が出なくなり、ついに一月二十日に死んだ。やっと二十二歳という年齢であった。幕府から検使が来るまで、死体は塩漬けにされていた。二月三日、検分が済んでも断絶した吉良家に引取り手はなく、法華寺という寺に土葬された。この間、上杉家には何の動きもなかった。前藩主綱憲はこれよりさき宝永元年(一七〇四)六月二日に逝去している。悶々たる失意のうちに世を去ったといってよかろう。  ◆事件の波紋とその後[#「事件の波紋とその後」は太字]  政治とは、つねに半ば以上は、事態解決の仕事である。元禄十六年(一七〇三)二月四日、たった一日のうちに双方の当事者を処断した幕府の裁定は、みごとな手際であったといってよい。政治家は|学習する《ヽヽヽヽ》のである。とはいえ、それはどこまでもリアル・ポリティクスの話。元号は翌一七〇四年に元禄十七年から宝永元年と替るが、「忠臣蔵」事件は時代の政治動向を変えたわけではない。むしろ元禄年間までは生き残っていた武士の「古き良き日々」を祀《まつ》り流した形代《かたしろ》だったと考えた方がよいのかもしれない。  さて、実際の事態解決にあたって、柳沢政権がいちばん頭を悩ましたのは、評定所一座の多数意見にまで力を得て来ていた浪士助命論であった。その圧力で助命してしまったらどうなるか。「此輩が主のためにせしをもて助けられんに於いては、此の後、罪蒙りし者の臣子報復を名とし、ひがふるまひして、大乱を引き出す基《もとい》ともなるまじきにあらず」(『徳川実紀』巻四十七)という危惧であった。せんじつめれば、亡君のためにという理由でなされた集団報復に助命(けっきょくは無罪)という先例を作ってしまったら、以後、それを口実としたいかなる暴挙も取り締まれなくなるだろうという憂慮だった。それを解決したのはまだ若き荻生徂徠の颯爽たる法理論であった。『徂徠擬律書』はいう。 [#ここから1字下げ]  義は己《おの》れを潔くするの道にして、法は天下の規矩《きく》なり。礼を以て心を制し、義を以て事を制す。今四十六士、其主の為に讐を報ずるは、是《こ》れ、侍たる者の耻《はじ》を知るなり。己れを潔よくする道にして、|其事は義なりと《ヽヽヽヽヽヽヽ》雖《いえ》|ども《ヽヽ》、|其党に限る事なれば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、畢竟《ひつきよう》は|私の論なり《ヽヽヽヽヽ》。其ゆえんのものは、元是《もとこ》れ長矩殿中を憚らず其罪に処せられしを、又候《またぞろ》吉良氏を以て仇と為し、公儀の免許もなきに騒動を企《くわだ》つる事、法に於いて許さざる所なり。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるゝものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽んぜざるの道理、尤《もつと》も公論と云ふべし。|若し私論を以て公論を害せば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|此以後天下の法は立つべからず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。荻生惣右衛門、議す。 (「義」は自己を清廉にする道であり、「法」は天下の尺度である。武士は礼によって心を制し、義によって事に処する。いま四十六士が主君のために仇討ちをしたのは、武士として恥を知っていたからである。自己を清廉にする道であって、|行為は《ヽヽヽ》「義《ヽ》」|に叶うが《ヽヽヽヽ》、|しかし《ヽヽヽ》、|自己一党に限ることであるから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|しょせんは《ヽヽヽヽヽ》「私《ヽ》」|の論理にすぎない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。なぜか。もともと内匠頭が殿中を憚からぬふるまいが原因で処罰されたのに、またぞろ上野介に報復したのは、公儀の許可なく騒動を企てたのであって、「法」の許さぬところである。いま四十六士の罪刑を決定し、武士の礼をもって遇してこれを切腹に処するならば、上杉家の存念も立ち、また赤穂浪士の忠義も軽んじない道理になるから、公論といえるのではないか。|もしここで一家一党の私論を公論に優先させたら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|これ以後《ヽヽヽヽ》、|天下の《ヽヽヽ》「法《ヽヽ》」|は一切立たぬことになるであろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。荻生惣右衛門は、以上を提議する。) [#ここで字下げ終わり]  だいたい「擬律書」というのは、所与の事件に従来の法規を適用していかに罪刑を定めるかのいわば法手続き案件書である。徂徠は柳沢吉保の相談に乗って、この線ではどうかという成案を示したのである。吉保が飛びついたのは、この案には「義——法」、「私——公」というあざやかな概念操作があり、しかも、それが難題解決にきわめてプラグマティカルに有効だったからである。なるほど、これでゆけば赤穂浪士の忠義も立ち、上杉家の面目も保《たも》て、なんとか助命論を押しつぶせるではないか。吉保はリアル・ポリティシアンであった。また徂徠自身も、この案件書が主君吉保の急場をしのぐためのかなり便宜的なものであることを知っていた。「上杉家の願も空しからずして」云々の言及でそれがわかる。しかし、『擬律書』を結ぶ有名な「若し私論を以て公論を害せば、此以後天下の法は立つべからず」という一文は、徂徠の眼線がもっと高い角度に向けられていたことを示している。  徂徠の眼中にあったのは、たとえば『評定所一座存寄書』が小楯に取ったような『武家諸法度』の法制的内部矛盾ではなかった。また、『多門伝八郎筆記』が主張したような「片落ち」論でもなかった。この論点は、展開すればいわゆる喧嘩両成敗論になる。事件落着後何年も経ってからのことであるが、浅見|絅《けい》斎という学者が『四十六士論』を書き、赤穂浪士による復讐は、「大法ヲ以テ云ヘバ、自分同士ノ喧嘩両成敗ノ法ナリ」と書いている。だが、この喧嘩両成敗法なるものは、この時代まだ存在していたのだろうか。それはもう死語、死文、死法になっていたのではあるまいか。なるほど、人体の虫様突起のように、痛み出して初めて、そういう退化器官があったことを感じる場合もある。そんなたぐいのものになっていたのではないか。現に、赤穂浪士中の誰ひとりとして自分たちの行為の正当化のために、喧嘩両成敗法を言い立てた者はいなかったのである。  喧嘩両成敗法については、すべての法制史家たちが石井良助の次のような明快な規定に一致してしたがっている。「喧嘩両成敗とは、腕力に訴えた喧嘩口論の当事者双方に、理非を糺明することなく成敗を加えることをいう。成敗とは、制裁・刑罰の意味であるが、狭義では特に死刑を意味し、喧嘩両成敗にあっては、双方に同一の刑を課すのである」(法律学演習講座『日本法制史』)という規定である。しかし、問題はその起源が非常に古く、「喧嘩」とは本来は所領紛争、封建的一族の集団的名誉回復などを目的とした私戦ないしは私闘を意味していたのである。江戸時代になってからは、特徴的に見られるのは、もはやそうした中世法的性格ではなく、むしろ「喧嘩を其身と其身で解決すべきだという方針と喧嘩両成敗の方針との間の不断の動揺」(石尾芳久「喧嘩両成敗法について」、『日本近世法の研究』所収)であった。幕府が「忠臣蔵」事件の処理をめぐって見せていたのは、まさにこの動揺であった。寛文三年(一六六三)の制定にかかる『諸士法度』があり、その第九条に「喧嘩口論制禁なり。もしこれ有る時、荷担せしめば、其咎本人より重かるべし」という文言がある。この程度の法制感覚だったのである。  『徂徠擬律書』は、その事態緊急解決的要素は別として、そういう古証文はあまり相手にしていない。徂徠には別に『論四十七士事』という文章があり、そこでは遠慮なくホンネを語り、「長矩一朝の忿《ふん》、その祖先を忘れて、匹夫《ひつぷ》の勇に従事し、義央を殺さんと欲して能くせず。不義と謂ふべきなり。四十有七人の者、能くその君の邪志を継ぐと謂ふべきなり。義と謂ふべけんや」と論じている。つまり、徂徠は赤穂浪士の行為を「義」であるとは思っていなかった。そこに見出すのは、「むしろ死して以て|その君の不義の志を成さん《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」という信念であった。  だからまた徂徠は、一党の「邪志」がいかに怖るべき行動力をそなえていたかをもよく理解できた。『擬律書』といい『論四十七士事』といい、徂徠が論理的に対抗していたのは、もはや有名無実化した喧嘩両成敗法などではなく、たとえば元禄十五年(一七〇二)九月十三日付の大高源五書状に見られるような、いっそアルカイックな忠誠信念であった。 [#ここから1字下げ]  天下(幕府)へ御恨み申し上ぐべき様《よう》御座無く候ゆえ、御城は仕細なく差し上げ申したる事に候。これ天下へ対し奉り候て、異議を存じ奉り申さぬゆえにて御座候。しかし、殿様(内匠頭)御乱心とも御座無く、上野介殿へ御意趣御座候由にて御切りつけなされたる事にて候へば、其の人はまさしく仇《かたき》にて候。主人の命を捨てられ候ほどの御憤《いきどお》り御座候|仇《かたき》を、安穏に差し置くべき様《よう》、昔より唐《もろこし》・我朝ともに、武士の道にあらぬ事にて候。 [#ここで字下げ終わり]  この書状は、動機や理由は一切問わず、ただ亡君がやりそこなった鬱憤散じを、われらがいわば代執行《ヽヽヽ》するのだという「論理」を最高の純度と硬度で語っている。しかもその心境たるや、おそらくは大石内蔵助も慄然としたであろうほどに淡々としている。上野介も怖ろしい連中に狙われたものである。  荻生徂徠がつぶさなければならないと感じたのは、まさにこうした種類の忠誠心であった。徂徠は助命論つぶしに一役買った。よく助命論の朱子学的立場(徳治主義)に対して、徂徠は古学的立場(法治主義)をひっさげてデビューしたなどといわれる。冗談ではない。この時期の徂徠はまだ朱子学者である。しかし、蛇は一寸にして人を呑む。「若し私論を以て公論を害せば、此以後天下の法は立つべからず」といったとき、徂徠は早くも四半世紀後、享保年間、八代将軍吉宗の時代になってから書くことになる『政談』の国家構想を法理論的に予感していた。  いまこの元禄年間に、徂徠法理論が柳沢政権にどう便宜的に用いられたかは問うところではない。助命論、つまり一党の「私論」を認めることは、老中評議、とりわけこのような大事件で評定所一座にまで決定権が拡張された場合、国家権力がこの合議制によって意志決定機関を統御しているのかどうか疑わしくなる。幕閣は国家権力の中枢部である。しかし、最終的決断者としての権力者《ヽヽヽ》はだれなのか。助命論の票は老中や若年寄の一部からも投じられたという。綱吉と吉保はいっとき孤立した。この政権を維持していたのが、安定した権力制度ではなく、気まぐれな将軍とその寵臣のたんなる勢威だったからである。徂徠のいう「天下の法」とはそういうものではなかった。法源は唯一《ヽヽ》、全国の諸藩諸侯から自立した国家権力としての幕府——御公儀——に集中すべきものであった。「私論」を介入させる余地のある法制であってはならなかった。  元禄期政治の行政機構は、その点から見るとずぶずぶであった。幕府は当然、権力中枢部だけであまたの国家業務をこなすことはできない。それは持ち回り的家格官僚制とでもいうべきシステムによって、諸藩諸侯への自己負担として課役《かやく》される。「忠臣蔵」一件の事前と事後がそこのところを逆光線で照らし出している。播州浅野家が命じられたのは、御馳走役であった。細川家・久松松平家・毛利家・水野家が任じられたのは四十六士のお預けであった。諏訪家に押しつけられたのは吉良左兵衛の終身禁錮であった。すべては先例と慣習で動く。責務はいかに遺漏がないかを基準にして施行され、格式にないことはしない。しない方が身のためである。新規の事態にはかならずお伺いを立てる。横並びに調整はしても、たがいに口出しはしない。「花の元禄時代」は反面から見ると、じつにいやな社会だった。いうところの「管理社会」が早くもできあがっていたのである。  赤穂一党の討入り成功は、そのように硬直した社会の逆を行ったからだとはっきりいえる。たくみに、というより、たまたまその虚を衝いたのである。なにしろ官僚的常識を越えた行動であり、あらかじめそれに対応する部局はなかったのだから、機構上だれにもその責任は問えない。しかし、不始末にはだれか責任者の首を皿にのせるというのも官僚主義の慣行である。赤穂浪士たちは確信犯である。「落度」はだれにあったか。あわれや、吉良左兵衛が一身にその責めを負わされることになった。喧嘩両成敗はこれで達成されたのだろうか。とんでもない。すでに死法化していたそれがいまや完全に過去の遺物となったことが天下に公示されたにひとしかった。  武家社会全体が同一規格で動く状況のもとで、いかに「手落ち」のあることが怖れられたか。特に岡崎藩水野監物家をターゲットにするつもりはない。ただ同藩の記録には、あまりにも無失点主義《ヽヽヽヽヽ》への傾きがいちじるしいのである。たとえば、元禄十五年(一七〇二)十二月十六日付の『御老中へ御伺ひの覚え』は、ざっとこんな調子である。  火事が出たらどうするか、預り人の気分が悪くなったらどうするか、怪我人を医者に見せてよいか、楊枝《ようじ》を使わせてよいか、髭・月代を剃らせてよいか(カミソリ、つまり刃物を持たせることになる)、行水はどう使わせたらよいか、料紙・硯を所望されたらどうすればよろしいか、親類から差入れがあったらどうするか、タバコを吸いたいといったらどうするか……等々。こんなにこまかく指示を仰がれたら、いかに管理職たる老中の面々といえども、つい「そんなことぐらいは自分で考えろ」と怒鳴りつけたくなるだろう。しかし老中衆は、なかなか辛抱強かった。「お伺い」への返事は、「今度御預り人は、大罪の者と違ひ候間、大概其の趣きを以て仰せ付けらるべく候」とやんわりたしなめている。  ここで卒然と、一つの既視感が悪夢のようによみがえる。刃傷の当日、どうやら浅野内匠頭は吉良上野介に向かって、いろいろ神経質に物をたずねたらしいのである。上野介にはさほどの忍耐力の持ち合わせがなかった。『冷光君御伝記』は、御馳走役は毎年のことだから先輩に聞き合わせておけばよいものを、何を「今更行き当り候てお尋ねか」と嘲笑して言い捨てた、とある。どうも「忠臣蔵」事件の発端と事後処理とには、当事者の応対がわずか紙一重の差でしかないような、同一のメカニズムが底流していたように思われて仕方がない。おそらく吉良上野介は、自分のどんな一言がなぜかくも相手を逆上させ、その旧家臣に生命をつけ狙われる破目になったのか、首が胴から離れるその時にも理解していなかっただろう。それから一年有余。幕府老中衆はにぶい配下に指図する際の限度を充分心得ていた。事件からたっぷり学んでいたのである。  江戸時代を通じて、殿中刃傷事件はその後何度も起きている。しかし、討入り事件は二度とふたたび起きることはなかった。時世が変ったのである。思えば幕初から江戸時代のある時期まで、直情径行は武士の花であった。元禄時代は、さきに見た赤穂の「古き良き日々」に間喜兵衛が慨嘆していたように、武士の大勢は「算用者、手書、奉公人」に入れ替りつつある過渡期であった。天意か、はた偶然か、赤穂藩にその花の最後の大輪を開かせる機会がもたらされたわけであるが、吉良邸討入りの成功は、当事者が赤穂勢であったことと決して無関係ではないだろうと思う。たんなる直情径行の集団だけでは、この計画が成功するはずはなかった。一方では脱落者をたくみに同盟から切り離し、他方では堀部安兵衛ら江戸武闘派をなだめすかし、最後にはともかく四十七人を確保した大石内蔵助の忍耐づよい組織力には敬服すべきである。だがすべては大石の個人プレイではなかった。「算用者、手書、奉公人」のたぐいが役立ったのである。  討入りというと斬り合いばかりが目立つが、それに不可欠なのは兵站《へいたん》と後方支援である。大目付の尋問に対しても、預り屋敷でも一党は余計なことを口外していない。切腹した四十六人以上に係累を拡げまいとする配慮である。ただ細川邸では、富森助右衛門が、平時から伝馬町の問屋たちの間で、赤穂藩は金払いがよいので評判がよかったと語っている。塩の販売ルートのつながりであろう。こういう信用はいざというとき物をいう。直情径行だけが武士ではないのである。早馬の利用、川舟による移動、物資輸送の便宜……そうしたいくつもの兵站線の交錯する網の目が、しだいに本所の一画にしぼられていった。  討入りの成功の報は、全国の直情径行型の武士たちの血を騒がせ、そして元禄時代の終焉をある満足感をもって実感させた。幕府内部の動揺も、元禄十六年(一七〇三)二月四日の今度ばかりは「片落ち」ならぬ裁定によって、やがて沈静化した。事件の波紋は時とともに水面から消えてゆき、宝永三年(一七〇六)一月——ちょうど諏訪で吉良左兵衛が悶死したのと同じ月——柳沢吉保は老中の上座を占める地位に立ち、幕府の最高権力者になった。幕府政治は、もはや|元禄ではない《ヽヽヽヽヽヽ》時代へと着々と歩を進めていた。  「忠臣蔵」事件は、むしろ人形浄瑠璃や歌舞伎の舞台をとおして江戸時代の民衆の間にひろまり、人気をさらった。だが最初の公約どおり、そのことに一切ふれない。武家社会はどうであったか。武士がやむにやまれぬ信念の貫徹のために武力行使に及ぶという道義は、偶発的なもの、発作的なものは別として、その後ずっと百五十八年もの間、完全に地を払ってなくなった。ひとがまた武士同士の集団的武力行使の場面を見聞するには、万延元年(一八六〇)三月三日の桜田門外の変を待たなければならなかった。そしてそれはもちろん、いまの「忠臣蔵」の話題の圏外にある。 [#改ページ] [#小見出し] あとがき  何だかんだと理屈をいう前に、まず、先人の業績に敬意を表しておきたい。年代順に『赤穂義人纂書』、『赤穂義士史料』、赤穂市史編纂室編『忠臣蔵』第三巻という三セットの厖大な史料集成である。これらすべてには先学者たちの労苦が結晶している。事件関係の記録類は完全に網羅されており、たとえ同一文献があっても校訂し直されていて、この三部には原則として重複がない。その収集能力と熱意には頭が下がる。  筑摩書房からそのコピイが小包み三つ分——のベ四千ページ弱——届いたときには、正直なところ、気が遠くなった。が、だんだん史料読みの要領がわかってきた。儒者の議論、俗説、巷談、明白な偽書のたぐいは、特に必要としないかぎり省略して可。そのかわり、事件の重要な局面に関する記述は、各史料それぞれのアングルからしっかり読み込む。同一場面が書き手の視点の差異から別箇の光と影を帯びていて、それがかえってリアリティを深めた。たとえば吉良邸内の戦闘では、双方たがいにこいつは腕が立つと直感するだけで、相手がだれだかわからないのだ。またたとえば十二月十五日の夜半、浪士引取りの場面では、「上杉は来ないか」と張り切る古武士たちの心境に、湾岸戦争のときの一群の日本知識人の反応を見るようでおかしかった。人のことばかりはいえないが。  はじめにおことわりしておいたように、筆者は当初から文学・舞台芸術の面での『忠臣蔵』の領域には踏みこまなかった。ただひたすら史料に史料自身をもって肉づけを重ねて行くことに専念したつもりである。特に方法はない。ただ一つ徹底したクロス・チェック(相互照合)あるのみ。また、この事件をいわゆる思想史の事柄として取り扱うこともしなかった。事件をそんなに痩せ細らせたくなかった。「忠臣蔵」事件は、その全体がどこか人間喜劇《コメデイ・ユメーヌ》的であるところに妙味がある。生きて血のかよった人間たちのドラマである。活躍するのは元禄末年の江戸、そして特にその場末の本所である。この時空間の感覚を復原するのは、文学者には多少手に余る。気象学では根本順吉氏から、吉良邸の面積算定については都市学者の陣内秀信氏から多大な御教示を得た。謝意を述べておきたい。  この一冊では、赤穂義士という言い方はしなかった。「義士」、「不義士」という二分法は双方それぞれの人間の悩みをどちらも隠蔽してしまうからである。かといってまた四十七人の猪突猛進分子という言い方もしたくない。清水港ならぬ赤穂藩に四十七人の森の石松がそろっていたなどということはありえない。加うるに、この最後まで同盟に残った四十七人は決して一枚岩ではなかった。方針上の内部対立があり、相互不信があり、古武士として最後の一花組があり、体面上引くに引けぬという面々もいた。最後は個々人の主体的決断であった。四十七士の人間的な苦悩と栄光は、だれに強制されたわけでもなく、まったくの自由意志で自己決断したことにあった。  以下はアクノウレッジメントである。今年一月に電話をしてきて、八月までに一冊を書き上げろと無理難題を押しつけた筑摩書房編集部の井崎正敏氏は、役柄でいうならもちろん憎体《にくてい》な吉良上野介。筆者はさしずめ刃傷にも及べなかった浅野内匠頭というところか。それにしても大石内蔵助役の石井慎吾氏は、敏速かつ精力的に、周辺資料をよく収集して下さった。たいへん感謝している。  ここからは一般論になるが、人間、どんな職場にも上司にかならず吉良上野介的人間がいるものである。『忠臣蔵』物の映画やテレビドラマがいまだに人気のあるゆえんであろう。カラオケの中年男性向きナンバーに『刃傷松廊下』という演歌があり、間にセリフが入って、「お放し下され、梶川殿」という一節がある。『週刊文春』にOLの投稿で作られている『おじさん改造講座』という毎週連載があって愛読しているのだが、このときたいがい「おじさん」は女性にうしろから抱きとめさせるのだそうだ。これはセクハラではないか、と投稿者のOLはフンガイしていた。念のために文春文庫版『おじさん改造講座』の「カラオケ」の章を見たが、紙面の都合のせいか残念ながらカットされてしまっていた。でも、これは本当の話である。  [#1字下げ]平成六年(一九九四)七月二十六日 [#地付き]野口武彦  編集部注[#「編集部注」はゴシック体] 本書の史料収集にあたっては、たばこと塩の博物館、早稲田大学図書館、東京大学図書館、同大学史料編纂所、国立国会図書館、国立公文書館ほかのご協力をいただきました。記してここに感謝の意を表します。 今日の人権意識に照らして不当、不適切と思われる語句や表現については、作品の時代背景と価値とにかんがみ、そのままにしました。 野口武彦《のぐち・たけひこ》 一九三七年生まれ。文芸評論家。早稲田大学文学部を経て、一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了、東京大学大学院人文系研究科博士課程中退。ハーバード大学イエンキン研究所客員研究員、プリンストン大学客員教授、神戸大学文学部教授を歴任。日本文学・日本思想史専攻。古代から現代まで縦横無尽に駆けめぐる脚力、大胆で骨太な論理、流麗かつ繊細な文章では他の追随を許さない。著書に「江戸の歴史家」「作家の方法」「江戸人の昼と夜」「王道と革命の間」「三人称の発見まで」「荻生徂徠」「江戸のヨブ」「幕末気分」他多数。 本作品は一九九四年一一月、ちくま新書として刊行された。